いきてゆくこと
だから今日も彼は靴を磨いている。人通りの多い道の端に縮こまるように座り込んで、今日も彼は客を待っている。彼が待っている客の、その多くは、人生に疲れ果てたサラリーマンだった。
彼らは一様に、誰かへ対して癒しを求めていて、だから靴を磨く彼とひとときの会話で、ほんの僅かな癒しを得る。そうして、彼はその対価として硬貨をもらう。三十分で一枚。一時間で二枚とその半分。もしくは時々、食料を得ることもある。
靴を磨くのが彼の仕事である。
そして今日も待っている。
「やあ、靴磨き」
「こんばんは、親父さん」
「頼んでもいいか?」
「いいよ。今、暇なんだ」
そう答えて笑ってみせると、客は力なく微笑み返し、彼の向かいに置かれた小さな椅子に腰掛けた。彼は靴磨き用の薬と布を取り出して、差し出された足へ手を添える。客の履いているスーツのズボンの裾は擦り切れて、布はぼろぼろになって汚れていた。
彼は思う。
これを見て、どこかの誰かさんは何か感じないのだろうかと。うろんな目で客を見上げて、へらりと笑う。
「佐藤さん、随分がんばってんだね」
「なんだ、俺の名前覚えてたのか?」
「記憶力だけはいいんだよね、オレ」
自虐的に笑って、客の靴に布を滑らせる。少し強めにこすって、いつごろ付いたかかもしわからない泥を落とす。雨の中も、風の強い日も、日差しがきつい朝も休みなく、休みなく、休みなく、ただ歩き続けて酷使し続けるからだと靴。
それから。
それからなんだろう?
「そう言えばさあ、靴磨き、聞いてくれよ」
「うん?」
「娘がさ、今年で十八なんだけど結婚するんだ。まあ、出来ちゃった結婚だけどなあ」
「おめでたいじゃない。おめでとう」
「はは、ありがとう。けどなあ、男のほうに問題があってなあ」
右の靴を磨き終わり、左に取り掛かる。けれど口は止めない。それが彼の職業のうちのひとつであり、サービスでもあるからだ。ここで会話を途切れさせてしまっては、仕事にならない。なぜなら彼が待つ客は、人生に疲れたサラリーマンなのだから。
「問題?」
「最初に反対したらよお、駆け落ちしようとして」
「そりゃあすごい情熱だ」
「そうだよな。だけど、それで一時は娘の体も危なくってな」
「ふうん」
他人事と思いつつ相槌を打つ。
客は話を続けながらぼんやりと、流れる車のライトや人並み、街並みを眺めていた。
その横顔をちらりと見て、彼は片眉をあげた。客は妙に晴れ晴れとした表情をしていた。何か抱え込んでいた荷物を下ろしたような、そんなすっきりとした顔をしていた。彼はそれから無言で左の靴を磨き上げ、最後に艶を出す薬を塗って仕上げた。
両足の靴はうつくしく街並みの電球を反射して、車の流れるライトを映し出した。
「佐藤さん、終わったよ」
「ああ、ありがとう」
「お代は、…そうだな。今日は一枚でいいよ」
「一枚? 一時間くらい経ってるぞ?」
「いいよ。違うものをもらったから」
「そうか?」
「うん」
「ありがとう」
客は恥ずかしげに笑い、硬貨を財布から一枚取り出し彼の手に乗せた。そうして徐に立ち上がると体を気持ちよさそうに伸ばしてから、彼を振り返って、再度ありがとうと言い、去っていった。
彼は、乗せられた硬貨をぴいんと弾いて、それから空中でキャッチした。
それをポケットに押し込んで、彼は立ち上がり、自分の座っていた椅子を小さく折りたたんで、商売道具をまとめ、小脇に抱えて歩き出した。
急に鼻歌を歌いたいような気持ちになって、けれど、彼に歌える曲はなかったので、ひょこひょこと歩きながらとんちんかんな歌を歌った。
彼の仕事は靴を磨くことだ。彼の靴を磨く人間は、どこにもいないけれど。