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煙草の神様

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 まさか、私の目の前でこのような事態が展開されようとは、いったい誰が予想しただろうか?きっと、煙草の神さえ予想出来なかったに違いない。あわやこのまま命を終えるかという瞬間に、私はこの殺人事件の当事者となったのだ。私は、やはり他とは違う特別な煙草だったのかもしれない!
 私は、ただじっと目の前の展開を見詰めていた。無論、見詰める以外の行為を私が出来るはずもないのだが、とにかく私は渋木と高遠をひたすら注視していた。
 高遠は、それこそ私たち煙草のようにゆっくりとしたスピードでその生涯を終えようとしており、断末魔の代替品のような痙攣も徐々に少なくなっていた。
 渋木は、高遠が絶命していく様を充血した両目でじっと見ていた。否、それは高遠が確かに命を終えた瞬間を確認するための「観察」と呼ぶべきかもしれない。高遠の動きを少しも見逃さないようにと大きく開かれたその目は、瞬きさえ忘れているようだった。
「……さあて、どうするかな」
 酒と煙草でつぶれた声で、渋木がささやくように言った。深夜ということもあり、周囲に人の影はない。渋木は今しがた絶命した高遠の身体のすぐ傍にしゃがみ込み、その身体に手を伸ばした。おそらく、これから人気のないところに埋めるなり隠すなりするのだろう。
 その時私は、渋木の言葉にはたと我に返った。興奮が身体を支配していたせいか、大事なことをすっかり忘れてしまっていた。
 私は、今この時になってようやく、今後の自分の行く先を思った。
 渋木と高遠に必死で忘れていたが、渋木の口元から離れて地面に落ちた私は、この先いったいどうなるのだろうか?
 人間の性質から考えて、一度地面に捨てた煙草に再度口をつけることはないだろう。つまり私は、もうこの身を火に焼かれることはない。これはほぼ確定だ。
 ならばこのままここに捨て置かれるのだろうか。いやいや忘れてはいけない、私の身体には渋木の唾液が付着しているのだ。即ち今、私の身体は、日本警察にとって至極重要な証拠品というわけである。日本警察も馬鹿ではないだろうから、きっとすぐに私を見つけるだろう。そうすれば私の身体は証拠品として押収され、きっと大事に大事に保管されることになる。
 そう、ということは、私の身体は朽ち果てることなく、このまま生き続けることが出来るのだ!
 ああ、私はやはり特別な煙草だったのだ。煙草の神様、呪いの言葉を吐いた私をどうかお許し下さい。貴方はやはり私を見捨ててはいなかった。きっと煙草の神様は、こうなることを見越して私に言葉という概念を授けて下さったのだろう。そうに違いない。
 案の定渋木は、私を咥えていたことなどすっかり忘れてしまったようで、地面の血溜りをおざなりに処理した後、高遠の身体を重たそうに抱えて去って行ってしまった。「くそ、重い」という言葉が聞こえてきたが、どうせ渋木はすぐにお縄にかけられるのだ。死体を隠したところで大した意味はないというのに、ご苦労なことである。
 さあ、私はこのまま朝を待てばいい。朝を待ち、高遠の死体が発見されれば、きっと警察が私を見つけるだろう。何日か時間はかかるかもしれないが、私には証拠品という未来が約束されているのである。
 さあ日本警察よ、早く私を見つけるがいい。そしてDNA鑑定でも血液型でも、科学の最先端を駆使して渋木を捕まえるのだ。
 こんな冷たいアスファルトの上ではない、安寧の地へと私を連れて行け!

「……今日はいい天気じゃのお」
 朝になった。私の未来を祝福するかのような陽光に、あるはずもない口が自然と緩む。よぼよぼの足取りで朝の散歩をする老人さえ、今の私には神々しい天使か何かに見えた。
 さて、日本警察の有能さをとくと見せて頂こうか。とりあえず、三日程は文句を言わずに待ってやろう。渋木はどうやら都合よく私を道の端に落としてくれたようで、ここなら車のタイヤの下敷きになる心配もなさそうである。
 私は心を躍らせてその時を待った。生物でない私が「死」を恐れるとは何事かと思われるかもしれないが、嫌なものは嫌なので仕方ない。これからの未来を思うと、思わず鼻歌のひとつも歌いたくなるというものだ。歌うことが出来ないのは勿論承知の上だが。
 その時、朝の散歩に励んでいた老人が、首を傾げながら下を向いた。いや、下ではなく、正確には――私を、見ていた。
 ざわりと、あるはずもない背中に悪寒が走った。
 ……待て、老人。
「誰じゃ、こんなところに吸殻を捨ておって……」
 ただでさえ皺だらけだというのに、更に眉間に皺を寄せて、老人はゆっくりと腰を折る。同時に手を伸ばした先は――言わずもがな。
「これだから最近の若いもんは……」
 ぶつぶつと文句を言い続ける老人。骨ばった二本の指が挟み込んでいるのは、……紛れもなく私の身体、だ。
 私はかつてないほどに動揺していた。漫画であれば「あたふた」という効果音がぴったり当てはまりそうな心境だった。しかし誠に残念ながら、私には口も舌も手も足もないため、それを視覚的に表現することが出来ない。
 つまり、老人が起こすであろう次のアクションを止める術が、私にはないのである。
 待ってくれ。待つんだ老人。私には殺人事件の証拠品という大事な使命があるのだ。私には、証拠品として大事に保管されるという未来があるんだ。頼む、待ってくれ。待ってくれ、老人!
 ――今ここで、吸殻入れに放り込まれるわけにはいかないんだ!
「吸殻はちゃんと吸殻入れに入れないとなぁ、喫煙者のルールじゃよ」
 かくして、老人の指を離れてゆっくりと舞い落ちた私の身体は――無事、薄汚れた水の中に、着地した。
「町は町民がきれいにせんとのお」
 楽しそうに笑いながら、老人の声がゆっくりと遠のいていく。いまや私の視界にあるものは、丸く切り取られた吸殻入れの蓋から覗く青い空だけだ。
 ああ、煙草の神よ。いくらなんでも、これはあんまりすぎる仕打ちではありませんか?
 所詮は、特別な煙草などこの世に存在しないのだ。私は、流れるはずもない涙をそのままに、ただじっと目の前に広がる青空を見詰めていた。
作品名:煙草の神様 作家名:みなみ