煙草の神様
手始めに、私は「煙草」であることを申し上げておく。
こいつはいったい何を言っているのだろう、と思われるかもしれないが、私はその問いに「私は何の変哲もない煙草である」と返すことしか出来ない。無理やりに答えを作るとしたら、「言葉という概念を持つ、少しだけ特別な煙草である」といった程度か。
なぜそんな特別な煙草が存在するのか?と理由を問われたところで、私はそれに答えることが出来ない。ただ、私が煙草であるということを理解してもらえればそれでいい。
しかし、だからといって、私自身が言葉という概念を持っていること以外は、何ひとつとして他の煙草と変わらない。仲間たちと暗く狭い箱の中に入りながら、人間の手に渡る機会をじっと待つ。そして、箱を開けた人間に選ばれれば、あとは火をつけられてその身を焦がす、それだけだ。人間の唇に咥えられ、その身体を毒で犯すことが我々のアイデンティティなのだと言えば、きっと多くの人間たちは笑ってしまうに違いない。しかし、煙草に言い渡された運命など、所詮はそんなものなのだ。我々はいつだって、暗く狭い箱の中でその瞬間を待ち続けている。
私がこの箱の中に押し込められてからどれくらいの時間が経ったのだろうか。ある日、過去一度として体感したことのない衝撃が私を襲った。轟音がした瞬間と同時に受けたその衝撃に、私は目を大きく見開いた。無論、煙草に目など存在しないが、そんな気分だったのだと理解して頂きたい。
それから少しの間を置いて、ただひたすら暗いだけだった箱の中に、ほんの僅かに光が差した。それは光と呼べるような明るさではなかったが、箱の中の暗闇に比べれば十分だった。尚、しつこいようで申し訳ないが、何故目のない煙草に光が感知できるのか、といった質問に答えられるだけの情報を私は持ち合わせてはいない。
私が入った箱を開いたのは、年若い男だった。にぶい光を発する街灯を背に、細長く剃った眉の間に皺を寄せている。下唇には銀色のピアスが二つ、鼻に一つ、耳はといえば数えることさえ億劫になる数のピアスが連ねていた。
私は煙草であるため、自分を手に取る人間の外見を選ぶ資格があるはずもない。しかしながらその男は、煙草の私でさえ「出来ることならもう少し可愛げのある女性がよかったなぁ」と思いたくなるような容姿だった。
「寒いなぁ」
煙草と酒で喉がやられてしまっているのか、ひどい声だった。言いながらポケットをごそごそと漁る男は、おそらくライターを探しているのだろう。元々寄っていた眉間の皺が更にぎゅっと深くなり、小さく響いた舌打の音が男の苛付きをあらわしている。
煙草というものに「死」があるとすれば、それはおそらく火を消された時だろう、と私は考えている。つまり、人間の手に取られる瞬間が早ければ早いほど、私たちは早く死を迎えることになるのだ。残念なことに私は生物ではないが、だからといって「死」を早く迎えたいとは考えていなかった。出来ることなら、この箱の中で一番最後に選ばれますように、と祈っていた。
「くそ、遅いな」
苛付きを隠さない声で、男はそう言い捨てた。同時に、男の指が私のいる煙草の箱に伸びる。夜の街灯が瞬間的に遮断され、無骨な男の指が乱暴に箱の中を漁った。
煙草に神などいるはずがない。しかし、私はその瞬間、居もせぬ神に呪いの言葉を吐いた。
なぜなら――男の無骨な指が掴んだのは、あろうことか私の身体だったのだ。
男が私を口元に運び、そのまま咥える、噛み癖がある男なのか、咥えてすぐ私の身体をきつく噛んだ。「煙草は食い千切るものではありません」と抗議の声をあげたくなったが、残念なことに私は口と舌を持っていないためその願いは叶わない。
ああ、所詮「特別な煙草」などと自称したところで、その末路は普通の煙草と何ら変わらないのである。ならば何故、煙草の神は私に言葉など与えたのだろうか。これほど早く死を迎えるのなら、他の仲間たちと同じようにただの煙草で良かったというのに。
しゅ、とライターの火が着けられる音がした。私の命のカウントダウンが始まる、そう確信した。
「渋木ぃ、おまたせ」
男がライターの火を私につける直前、だった。すぐ背後から聞こえたその声に、私を咥えていた男が素早く振り返った。私を咥えた口と歯はそのままだったが、ライターの火は私に灯される前に鎮火された。
「高遠、てめぇ遅いんだよ。二時って言ったろ」
「悪かったって。女がうるさくてよ」
「ああ、綾香な。あいつ、まだキャバやってんのかよ」
「そりゃ、辞めたらあいつ飯食えねえだろ」
やって来たのは、私を咥えた男に勝るとも劣らないほど残念な容姿の男だった。眉毛は細くないが、その代わりにやたらと細い目が特徴的だ。高遠と呼ばれたその男は、寒い寒いと言いながら大げさに肩を震わせていた。存外に「早く帰りたい」と主張しているのが丸分かりだ。
「で、話ってなんだよ?」
尚も私を噛み続ける渋木という男に、高遠が投げやりな言葉をかける。面倒だというオーラを隠そうともしていない。ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、時折身体を震わせながら必死に寒さを堪えている。
渋木は、私を口に咥えたままにやりと笑った。それと同時に、私の身体も少しだけ持ち上がった。
「……ちょっとした相談ってやつ、だよ!」
言葉と行動のスタートは、おそらく同時だったと思う。渋木は、ズボンのポケットに素早く右手を突っ込み、それとほぼ同じ瞬間に右足を前に出した。渋木の唐突過ぎる行動に高遠が反応出来るわけもなく、高遠はただ僅かに目を見開いただけで、その瞬間を迎えてしまった。
その瞬間、私の身体は、既に渋木の口元を離れていた。渋木が走り出した瞬間の遠心力が、私の身体を解放に導いたのだ。花びらがふわりと舞うように、私の身体はゆっくりと落下していった。
重力に従って身体が自由落下を続けている最中だったが、私は、それを確かに見た。私が見た「それ」とは、――ただでさえひどい形相をさらに醜悪なものに変えた渋木が、高遠の身体をナイフで深く貫いている姿だった。
私は地面に落ち、渋木が私の入った箱を買った時よりもずっと弱い衝撃を身体に受けた。しかしそんな衝撃よりも、今目の前で展開されている光景に私は釘付けだった。
「……悪く、思うなよ。金を使い込んだお前が悪いんだ」
渋木の言葉と同時に、高遠はずるずるとその場に倒れこんだ。高遠の足元には、まるで太陽が作り出した影のように丸い血溜りが出来上がっている。これ以上身体から血を逃がしてたまるか、と高遠が自身の腹を必死に抑えているにも関わらず、それの広がりが止まることはない。
渋木は、目を血走らせ、息を荒くし、着込んだジャンパーに真っ赤な血を付着させていた。誰がどう見ても「この男は殺人犯だ」としか思えないような格好だった。
私はといえば、存在しないはずの心臓がどくどくと強く脈打っていた。おそらく、人間はこれを「興奮」と表現するのだろう。私は今、自身の目の前で起こった出来事に激しく興奮していた。
こいつはいったい何を言っているのだろう、と思われるかもしれないが、私はその問いに「私は何の変哲もない煙草である」と返すことしか出来ない。無理やりに答えを作るとしたら、「言葉という概念を持つ、少しだけ特別な煙草である」といった程度か。
なぜそんな特別な煙草が存在するのか?と理由を問われたところで、私はそれに答えることが出来ない。ただ、私が煙草であるということを理解してもらえればそれでいい。
しかし、だからといって、私自身が言葉という概念を持っていること以外は、何ひとつとして他の煙草と変わらない。仲間たちと暗く狭い箱の中に入りながら、人間の手に渡る機会をじっと待つ。そして、箱を開けた人間に選ばれれば、あとは火をつけられてその身を焦がす、それだけだ。人間の唇に咥えられ、その身体を毒で犯すことが我々のアイデンティティなのだと言えば、きっと多くの人間たちは笑ってしまうに違いない。しかし、煙草に言い渡された運命など、所詮はそんなものなのだ。我々はいつだって、暗く狭い箱の中でその瞬間を待ち続けている。
私がこの箱の中に押し込められてからどれくらいの時間が経ったのだろうか。ある日、過去一度として体感したことのない衝撃が私を襲った。轟音がした瞬間と同時に受けたその衝撃に、私は目を大きく見開いた。無論、煙草に目など存在しないが、そんな気分だったのだと理解して頂きたい。
それから少しの間を置いて、ただひたすら暗いだけだった箱の中に、ほんの僅かに光が差した。それは光と呼べるような明るさではなかったが、箱の中の暗闇に比べれば十分だった。尚、しつこいようで申し訳ないが、何故目のない煙草に光が感知できるのか、といった質問に答えられるだけの情報を私は持ち合わせてはいない。
私が入った箱を開いたのは、年若い男だった。にぶい光を発する街灯を背に、細長く剃った眉の間に皺を寄せている。下唇には銀色のピアスが二つ、鼻に一つ、耳はといえば数えることさえ億劫になる数のピアスが連ねていた。
私は煙草であるため、自分を手に取る人間の外見を選ぶ資格があるはずもない。しかしながらその男は、煙草の私でさえ「出来ることならもう少し可愛げのある女性がよかったなぁ」と思いたくなるような容姿だった。
「寒いなぁ」
煙草と酒で喉がやられてしまっているのか、ひどい声だった。言いながらポケットをごそごそと漁る男は、おそらくライターを探しているのだろう。元々寄っていた眉間の皺が更にぎゅっと深くなり、小さく響いた舌打の音が男の苛付きをあらわしている。
煙草というものに「死」があるとすれば、それはおそらく火を消された時だろう、と私は考えている。つまり、人間の手に取られる瞬間が早ければ早いほど、私たちは早く死を迎えることになるのだ。残念なことに私は生物ではないが、だからといって「死」を早く迎えたいとは考えていなかった。出来ることなら、この箱の中で一番最後に選ばれますように、と祈っていた。
「くそ、遅いな」
苛付きを隠さない声で、男はそう言い捨てた。同時に、男の指が私のいる煙草の箱に伸びる。夜の街灯が瞬間的に遮断され、無骨な男の指が乱暴に箱の中を漁った。
煙草に神などいるはずがない。しかし、私はその瞬間、居もせぬ神に呪いの言葉を吐いた。
なぜなら――男の無骨な指が掴んだのは、あろうことか私の身体だったのだ。
男が私を口元に運び、そのまま咥える、噛み癖がある男なのか、咥えてすぐ私の身体をきつく噛んだ。「煙草は食い千切るものではありません」と抗議の声をあげたくなったが、残念なことに私は口と舌を持っていないためその願いは叶わない。
ああ、所詮「特別な煙草」などと自称したところで、その末路は普通の煙草と何ら変わらないのである。ならば何故、煙草の神は私に言葉など与えたのだろうか。これほど早く死を迎えるのなら、他の仲間たちと同じようにただの煙草で良かったというのに。
しゅ、とライターの火が着けられる音がした。私の命のカウントダウンが始まる、そう確信した。
「渋木ぃ、おまたせ」
男がライターの火を私につける直前、だった。すぐ背後から聞こえたその声に、私を咥えていた男が素早く振り返った。私を咥えた口と歯はそのままだったが、ライターの火は私に灯される前に鎮火された。
「高遠、てめぇ遅いんだよ。二時って言ったろ」
「悪かったって。女がうるさくてよ」
「ああ、綾香な。あいつ、まだキャバやってんのかよ」
「そりゃ、辞めたらあいつ飯食えねえだろ」
やって来たのは、私を咥えた男に勝るとも劣らないほど残念な容姿の男だった。眉毛は細くないが、その代わりにやたらと細い目が特徴的だ。高遠と呼ばれたその男は、寒い寒いと言いながら大げさに肩を震わせていた。存外に「早く帰りたい」と主張しているのが丸分かりだ。
「で、話ってなんだよ?」
尚も私を噛み続ける渋木という男に、高遠が投げやりな言葉をかける。面倒だというオーラを隠そうともしていない。ジャンパーのポケットに両手を突っ込み、時折身体を震わせながら必死に寒さを堪えている。
渋木は、私を口に咥えたままにやりと笑った。それと同時に、私の身体も少しだけ持ち上がった。
「……ちょっとした相談ってやつ、だよ!」
言葉と行動のスタートは、おそらく同時だったと思う。渋木は、ズボンのポケットに素早く右手を突っ込み、それとほぼ同じ瞬間に右足を前に出した。渋木の唐突過ぎる行動に高遠が反応出来るわけもなく、高遠はただ僅かに目を見開いただけで、その瞬間を迎えてしまった。
その瞬間、私の身体は、既に渋木の口元を離れていた。渋木が走り出した瞬間の遠心力が、私の身体を解放に導いたのだ。花びらがふわりと舞うように、私の身体はゆっくりと落下していった。
重力に従って身体が自由落下を続けている最中だったが、私は、それを確かに見た。私が見た「それ」とは、――ただでさえひどい形相をさらに醜悪なものに変えた渋木が、高遠の身体をナイフで深く貫いている姿だった。
私は地面に落ち、渋木が私の入った箱を買った時よりもずっと弱い衝撃を身体に受けた。しかしそんな衝撃よりも、今目の前で展開されている光景に私は釘付けだった。
「……悪く、思うなよ。金を使い込んだお前が悪いんだ」
渋木の言葉と同時に、高遠はずるずるとその場に倒れこんだ。高遠の足元には、まるで太陽が作り出した影のように丸い血溜りが出来上がっている。これ以上身体から血を逃がしてたまるか、と高遠が自身の腹を必死に抑えているにも関わらず、それの広がりが止まることはない。
渋木は、目を血走らせ、息を荒くし、着込んだジャンパーに真っ赤な血を付着させていた。誰がどう見ても「この男は殺人犯だ」としか思えないような格好だった。
私はといえば、存在しないはずの心臓がどくどくと強く脈打っていた。おそらく、人間はこれを「興奮」と表現するのだろう。私は今、自身の目の前で起こった出来事に激しく興奮していた。