春雨 05
「そうだなあ、この距離じゃ多分俺にも無理だろうな」
「…そんなの絶対無理に決まってるじゃないですか!」
顔は疲れているのに口はいつもどおりの反撃がかえってる。まあこうじゃないとな。やっと俺の顔を見てくれる様になったみたいだし。
俺は何事もなかったかのように、櫂を奪い取ると、岸に向かって漕ぎ出した。
美智には黙っておいた。
片桐が彼女の事を見ていたかもしれないことは。
ボート乗り場の向かいの岸に乗り付ける。半分位の人数が集まっていた。
俺がボートを降りたら高梨が早速そばに寄ってきた。
「結構いい感じじゃなかったですか? やっぱ俺止めときます」
にやにやとそんな笑い。
「お前なあ、あんまり片桐のことつっこむなよ」
「美智はそんな話までしたんですか? らぶらぶじゃないですかー」
どこをどうしたら『らぶらぶ』になるんだろうか。
「とにかく、美智は聞いて欲しくないみたいだぞ」
「はーい。もう言いませんよ。後は先輩が慰めてあげるんですよね」
確かに片桐の事だったら、いくらでも話を聞くつもりだったが。こいつの口から聞くともの凄く下心があるように聞こえるのは何故だろうか…
当の美智は少し離れたところで香たちと談笑していた。
ぼんやりとその様子を見ていたら、隣にいた香がこちらを見た。彼女は俺に気が付くと、ものすごい勢いで睨んできた。
「こわっ」
「何が怖いんだ?」
声を掛けてきたのは徹だった。明日の事があるからか、彼はすこぶる機嫌がいい。気持ち悪いくらいに。
「何でもないよ。それよりも泊まってるボートの割に人数が少ないみたいだけど、みんなどこに行ったんだ?」
「ああ、この奥に洞窟があるとかで、何人か見に行ったらしいぜ。有名なんだって。その洞窟の中で願い事をすると、叶うって」
「…はあ、本当かよ、それ?」
思わず眉を寄せた俺に、徹は苦笑する。
「おまえ本当に変に現実的だよなー。そういう事絶対信じないだろ?」
「当たり前だろ、こんなところで祈ってたって何も変わりやしないよ」
「はいはい。お前には神様だって願い事かなえてやろうとは思わないだろうな」
「別にかまやしないよ。祈りたい奴は祈ればいい」
別に神様なんていないと言うつもりはないけれど。神社やお寺ならともかく、こんなところで願い事が叶うならそんなおいしいことはない。祈るよりは行動した方がよほど現実的だと思うのだが。
しかし特に女はこういう話しが好きだ。俺が信じてないと聞くと、皆大抵嫌そうな顔をする。めぐみ曰く「夢くらい見たいのよ。信じてるふりくらいしてあげなさい」と釘をさされたこがある。
「なあなあ、俺らも行ってみない?」
見ると、好奇心いっぱいの徹の顔。
「えー? 面倒くさい。俺は遠慮しとくよ」
「何オヤジみたいな事行ってるんだよ。ここでぼーっとしてたって仕方ないだろ?」
「オヤジって言うなよ」
「あ、気にしてた? お前老けて見えるもんなあ」
…なんとなくむかついた。
「やっぱりやめる」
「あ、嘘、克哉くんかっこいいねー! 若さがあふれ出てるよ!」
途端に軽い口調になる。調子がいい。
「どうせお前のことだから、めぐみの事頼むんだろ?」
俺が言うと、徹はもちろんそうに決まってるだろ! と満面の笑みで答えた。
「へえ、結構雰囲気あるじゃん」
「だろ? 来て良かったじゃないか」
何故か徹は自分のことのように誇らしげに言う。
そこは山の中をくりぬいた大きな空洞の様になっていた。ところどころに垂れ下がった岩があって、注意しないと頭をぶつけてしまいそうになる。外は快晴だったが、洞窟の中は湿気が籠もっていて、足元には水たまりがあったりして、注意していないと転びそうにだった。
中にはメンバーが何人もいる。みな上を見上げていた。
「あの壁に色の違う部分があるだろ? あれが地蔵みたいに見えない?」
…確かに茶色の岩の一部分が白くなっていて、その形が地蔵に見えなくも、ないか?
「あれに祈るんだってさ」
徹はまるで神様に祈る様に手を合わせて祈り始めた。横顔は真剣だ。
叶えばいいのにと思う。めぐみだって今のままじゃ救われないだろうから。でも叶わないことも解っている。
ふと横を見ると、美智の姿が見えた。香たちと地蔵のシミを指さしている。ひとしきり盛り上がった後で、彼女たちもそれぞれ手を合わせて祈り始めた。
美智は、片桐とよりが戻ればいいと思っているのだろうか。それとも、彼の事を早く忘れたいと思っているのだろうか?
俺には「忘れる努力をする」と言っていた。でもこの前だって泣いていたじゃないか。あんな簡単に泣けるくらい好きなんだろう? 今日だって片桐達が一緒にいるのを見ない様にしていた事ぐらい、気付いていた。
なんだか、面白くなかった。自分では彩花のことを忘れられないと思っているくせに。美智がいつまでも片桐の事を引きずっているのは面白くない。ずいぶんと自分勝手だ。
片桐の事を引きずっている美智を自分と重ねていた。彼女があいつを忘れるといった時、馬鹿にしながらもその話に乗った。それはきっと、彼女があいつを忘れられれば、俺も彩花の事をふっきる勇気がもてると思ったからだろう。勝手に自分と重ねて勝手に失望しているのは俺の方だ。
でもそれだけではないのかも知れない。
美智が泣いているのを見た時感じたのは、俺の中にわき上がってきたのは…
「…え?」
自分の考えついた事に自分で驚いた。
「まさか、な」
「なあ、克哉、そろそろ行こうぜ」
やっと満足したのか、長い祈りを終えて徹が来た道を引き返す。
俺もその後を付いていく。
これ以上考えないほうがいい、とそう思った。
帰りのボートは徹と高橋と3人で乗った。
徹は始終「男だけで乗るなんて」と拗ねていた。俺にしてみれば一緒に乗っていてそんなことを言われてはたまらない。一人でいじけている徹は放っておいて、高橋と話しをしながら乗っていた。
最初は俺が漕いでいたが、高橋が気を使って漕ぎ手を変わってくれた。なんというか、こいつは腰が低い。そのせいで京子にはいじめられるのだろう。難儀な奴だ。
それでも運良くめぐみとボートに乗れた事に喜んでいるらしく、彼女の方を見ては頬を染め、なんやかやと彼女の話題を振ってくる。
ここにも不幸な被害者が一人…。