緑の並木道 3
私達はあの日からよく、約束もせずに並木道で会うようになった。私がその道を通ると彼はいつも少々だらしなく着こなした制服姿で本を読んでいた。
私が近づくと彼はニッコリ微笑み本を閉じた。
「先輩んとこテストそろそろ?」
「二週間後。私バカだから本当困るんだよね。そっちは?」
二人でベンチに座り、くだらない話をしては時間を潰した。私はどうにも照れくさくて奴の名前を呼ぶことが出来ないでいた。
「俺の方もそんな感じ。なんか全然やる気でないんだよね。」
「まだ一年生だから大丈夫でしょ。ってゆーか、頭良くなかった?」
「ううん、勉強してなかったから駄目。褒美とかあったら別なんだけど・・・」
生意気な後輩は私の中でいつのまにか良き友達のような存在になっていた。私は時折見せる奴の子供らしい表情をたまらなく可愛らしいと感じていた。
中間テスト一週間前。テストに対する自信はまったくない私は毎晩必死こいて教科書暗記に励んでいた。いつもなら目の周りにくまを作る勢いで幽霊のごとく身も心も変貌している私だったが、今回はそうでもなかった。
「おーすっ永瀬!今回は調子良さそうだな?」
「うん、なんか今回は大丈夫かも。」
彼に向かって私ははにかむような笑顔を返していた。彼の前では可愛らしくしていたかった。
「ねぇ高村君、今回調子いいから数学教えて♪」
「いいよどこが分からない?」
彼、高村愁(タカムラ・シュウ)君は一年の時から同じクラスの男子。そして密に私が思いを寄せている人でもある。今の所この気持ちをどうにかする気も、その勇気も私にはない。少し可愛い子ぶって彼の友達でいる事が今の所は精一杯だった。
テスト一週間前。朝が大の苦手な私が寝不足の目をこすって教室まで早朝出勤してくる意味は、間違いなくここにある。
「ねぇ、高村君てさ進路とか決まってるの?」
「進学。俺が働けるほど世の中景気良くないしな」
特別に秀才な訳でも何かがずば抜けて出来るわけでもない彼の気さくで優しい笑顔がとても好きだ。
「永瀬は?」
「…私も、進学。だけど自分が何やりたいのか分からなくて」
「こら、暗い顔するなって。皆そうだよ。俺なんて出来る事ならちょっと現実逃避したいくらいだし。分からない事だらけなのは永瀬だけじゃないよ。な?」
そう言った彼は私の頭に大きく温かな手でそっと触れた。胸が高鳴るこの感覚は嫌いじゃない。
「ありがとう」
「いえいえ、ど~いたしまして♪」
この時、私は幸せに酔いすぎていて・・・のちに自分が衝撃的事実に深く胸を打たれることなど、知るはずもなかった。
「へー。じゃあ先輩そいつに会うためにわざわざ早く学校行ってんだ。」
いつもの並木道。久々に会った奴は少々不機嫌らしく、べンチの背もたれから背中を滑らせ、両ポケットに手を突っ込んで薄紅色の唇をへの字に尖らせていた。
「とってもステキな人だら、仲良くなれただけで私は…すごい嬉しいんだけど…」
「先輩さぁ、好きなんでしょ?そいつの事。」
唇を尖らせたまま、奴はふと私の方をた。私は真っ赤に染まっていた顔を隠す事が出来ずに、混乱してしまった。絶対にからかわると思っていたのに、奴は私を見るとからかう様子を見せず…「ふんっ」とでも言うような顔つきでプイッとそっぽを向いてしまった。
「…ねぇ、そいつさぁ」
「なに?」
「やめときなよ」
それだけ言うと奴はそれっきり黙り、ついには私に背中を向けて不機嫌なまま帰って行ってしまった。
私は窓の外で忙しそうに降って来る雨を眺めながら、ジメジメする空気を感じて席に座っていた。時折こちらの視線に気付かれぬよう彼、高村秋の後姿を見つめた。私はそれだけで幸せだった。
「琴美先輩、久しぶりだね」
梅雨に入ったせいでこの頃常に雨が降ている。それで私達はお互い相手をベンチに座り待っていることが出来なくなった。別にその場所でなくてはならない事はないが・・・私達には体を雨に濡らしてまで相手を待っている理由も、はたまたお互い連絡をとって別の場所に話しに行くまで重要な話をしていたわけでもなかった。
「本当。…なんだか懐かしいね」
「それ、オバサンっぽいよ?」
奴はやはり相変わらずの生意気な笑を浮かべてみせる。だけど私は奴がきっと無意識のうちに見せる子供らしい無邪気な笑顔を知ってる。
「ねぇ先輩、俺に会えなくて寂しかった?」
急にそう言う奴に思わず噴出してしまった。どうやら機嫌を損ねたらしく奴は少しだけ薄紅色の唇を尖らせた。
「ごめん、寂しかったよ」
ビニールの傘を左手で持ち直した。両肩に紐をかけた学生カバンが降り注ぐ雨を受け止めている。生意気加減に磨きをかけるように少しつり上がった目が傘の先から水滴が落ちていく様子を見つめていた。こちらに視線を戻した奴は、はにかむような笑顔を見せた。
時々奴が、無償に可愛らしく見える。
私はその朱色のインクで辺りを埋め尽くした紙を手にした途端、体中の力が抜けるように感じた。倒れるように席に着くと、右肩に温かい感触を感じた。彼が心配そうに私の顔を覗き込んだせいで、頬に熱が宿る。
「無理して体調崩したんじゃないのか?」
「そんなんじゃ…あんまり結果上がらなくて」
申し訳ないのと、赤い頬を隠すためにうつむいた。彼だって暇なわけではなに・・・私の指導に使った時間は無駄になった。
「…永瀬、あんま落ち込むなって。だまだ取り返しつくだろう。まあ、そ~ゆ~俺はしっかり上がったんだけど」
二ッと笑い、彼は私に「人に教える事は自分の力にもなる」と解答用紙を片手に教えてくれた。やっぱり私は、この人を好きだと思った。
久々に今日は雨が降っていなかった。とはいっても、5分後に土砂降りになっても少しもおかしくないような曇り空。緑の並木で、ベンチに座る。両腕を空に突き出して大きく伸びをするととても気持ちがいい。
ふと、辺りを見回すと並木道の外れに小さく、カップルらしき若者達が見えた。気分がいい私はつい、いい気になってそっとそのカップル達に近づいた。男子の方の制服が一緒の高校のような気がして。
どんどんどんどん…顔が見えてくる。大きな気の幹に身を隠し、ついに私は二人の顔を確認した。
「高村君!」
気づいたら私は隠れていた場所から飛び出していて、勝手にふざけていたのに見たくもない景色を直視してしまった。
大好きな並木道から外れると、そこはまるで別世界のようだった。鳴り響く音に、人々の話し声。だけど私はその雑音の中でもしっかりと二人の声を耳に入れていた。二人はとても楽しそうに、ゆっくりと道を歩いていた。時折目を合わせてはくだらない話題に笑い合う。
「…あれ、永瀬?」
ぼうっと突っ立っていた私に声をかけてくれたのは、高村君だった。いつもの優しい笑顔に今日ばかりは安らぎを得ることは出来ない。
「…高村君…あれ、そちら彼女?」