底は見えない
夏休みの課題を最終日まで取っておく、というやり方は愚か者のやり方であり、賢い人間ならば計画的に一日ずつ消化していくのが定石である。けれども大半の学生がそうであるように、美月とその友人である杏里は愚か者の途を辿ってしまう。一度その方法でなんとかなってしまうと、翌年もその翌年も二の舞どころか三の舞まで演じてしまうものだ。
そして高校生活最後の夏休みもこうしてまた最終日から始業日にかけて悪魔的な量の課題と向き合うことになった。「寝るまで今日は終わらない」が合言葉である。
時刻はすっかり夜も更けて、いっそ朝と呼んだ方がいい三時半。得意なものから片づけていった結果、美月は数学の冊子半分、杏里は原稿用紙五枚の読書感想文という強敵を相手に四苦八苦していた。
「シンデレラって嫌な女だと思わない?」
唐突に、埋まらない原稿用紙に当てつけのようにぐりぐり黒い丸を書いている杏里が、今にも舌打ちしそうな顔で吐き棄てた。
「シンデレラ、って、童話の? まあ確かに、靴だけ残して去るのはなかなか策士だとは思うけど」
それがもしわざとだったとしても、王子がそれを頼りに自分を捜し出せるとシンデレラは本気で考えたのだろうか。正体を告げることすら叶わない彼女の、せめてもの祈りのかたち、あるいは些細な願いの表れと考えれば、むしろ健気だとは思えど『嫌な女』だとは決して思えない。
「それもそうだけど、その後よ」
「その後?」
杏里は視線を原稿用紙の上に固定して丸を拡大し続ける。照明の光が反射するほど黒々と塗りつぶされた丸が原稿用紙の白を侵していく。
「王子様がシンデレラの家へ来るじゃない。ガラスの靴持って。そんでさ、お姉さんズがそれを履こうと必死になって足削ってんのよ? なんで止めないの?」ガリガリともザリザリとも形容しがたい音は止まない。黒丸は拡がり続けてほんのわずかな四隅だけが白く残った。「『それは私の靴よ』って、なんで言わないの」
ぴたりと手を止めた杏里は、まっすぐ美月を見据えた。射るような視線に突き刺された美月は、動きどころか呼吸さえ止めて杏里を見返す。
「あたしが血を流しながら足掻いてるのを、そうやってあんたは物陰から嘲笑ってたんだね」
何を、なんて馬鹿なことは訊ねなかった。杏里が言いたいことがすぐにわかった。微動だにしない美月に痺れを切らしたように、杏里は捲し立てる。
「ねえ、どうして『尚紀は私のものよ』って言わなかったの。あたしが馬鹿みたいにいちいちあいつの言葉に喜んだり泣いたりするのを見るのはおもしろかった? 心んなかで嗤ってたんでしょ、バカじゃないのっておもってたんでしょ」
口を開こうとして、いま、どんな言葉を並べてもそれが言い訳にすらならないことを美月は解っていた。たとえ彼に好きだと告げられたのが杏里が告白した後だったからと言って、今まで黙っていたことへの免罪符にもならない。
言い募ろうとして杏里が吸い込んだ息がそのまま嗚咽に変わるのを聞きながら、美月は黒々と拡がった丸を見つめることしかできなかった。それはまるで、ぽっかりと空いた穴のようだった。