湾岸の風〜テルの物語
爽やかな果物の風味のする水をたっぷり飲ませてもらいながら、私はまさにお姫様気分で、ひろびろとした浴槽につかった。侍女っぽい人たちが体を洗ってくれるし、いい香りのする油で顔のマッサージまでしてくれる。まるで天国。
爪まで磨いてもらって、すっかり生き返った私は、用意されていた白い裾の長い服を着付けてもらった。すらりと体の線の出る服で、大きめに開いた胸元に、花のような飾りがたくさんついている。綺麗だけど、どことなく子供っぽい服だった。
そういえば私、いま少女なんだった。壁にある大きな姿見にうつった自分を見て、だいたい十五歳くらいだろうかと、見当をつけた。
うす赤く日に焼けた肌に、さっぱりとした白いドレスがよく似合っている。髪もアップに結ってもらって、黄色い花心のある白い花が一輪挿してある。その花からも、甘くいい香りがした。
世話をしてくれた侍女の人たちが、最後に私の足に白い革のサンダルをはかせてくれた。ごく薄い柔らかい革でできた、羽根のように軽い靴で、きっと、自分の足ではめったに歩かないような、深窓のお姫様がはく靴なんだという気がした。
ここでは、私はどういう役回り?
拾われてきたお姫様として、いつまでも幸せに暮らしました、めでたし、めでたし?
どうもそういう訳ではないみたい。
その証拠に、着替えの終わった私が部屋に入ってくるのを見たイルスは、愛しの姫を見つめるうっとりとした王子っていう顔はしてなかった。
丁重なふうに私を出迎えた彼は、私の額を見て、静かに激しく驚いていた。これが漫画だったら、天井から落ちてきた金だらいに脳天をガッツンやられた人ぐらいの驚きっぷりだったんじゃないかな。
しばらくあ然としてから、イルスは私の額を指さして、言った。
「無い。聖刻が」
「せいこくって何ですか」
私は彼が指さす自分の額を見ようと視線を上げたけど、もちろん見えるわけない。
「あっただろ、赤い点が。ここに」
「あったんですか」
私は知らなかった。彼らが砂浜で私を見つけて、食い入るように額を見ていたのは、その赤い点があったせいらしい。
私を連れてきた侍女の人が、ものすごく気まずそうに、イルスに教えた。
「お顔を清めてさしあげましたら、消えてしまいました。どうやらお化粧だったようでございます」
イルスはまだ私の額を指さしていた。
「化粧?」
「はい」
「描いてあっただけか?」
「そのようでございます」
深く息をついて、イルスは指さすのを止めたが、私の顔を見る彼の下瞼が、ぴくりと微かに震えた。もし怒鳴って良いんだったら、怒鳴るけど、という表情のような気がした。しかし彼は怒鳴らなかった。ものすごい濁流を背中で押しとどめている感じのする低い声で、独り言のようにつぶやいただけだ。
「聖刻を描く馬鹿がどこにいる」
ごめん。ここにいる。
「なんの遊びか知らないが、二度とするな。神殿に知れたら命がないぞ」
自分で描いた憶えもないんだけど、行きがかり上、私は反省した面持ちで頷いておいた。
疲れたふうに、イルスは執務机に行き、卓上にあった書きかけの書類のようなものを手に取ると、びりっと派手な音をたてて破り捨てた。きっとやつあたりだ。
破っただけじゃ足りなかったのか、イルスは壁際の小さな暖炉のほうにいき、その書類を燃やした。寒くないのに、なんで暖炉なんかあるんだろうと思ったけど、どうやらそれは彼のシュレッダーらしかった。燃やすんなら破らなくてもいいのに。やっぱり、やつあたりなんだ。
「食ったら出ていってくれ。送らせる」
気分を切り替えたらしく、イルスはいくぶん軽い声で、私のほうを見もせずに言った。
ごはん食べていっていいんだ。
とてもお腹がすいていたので、その一言は私には嬉しかった。天国風呂の幸せから、一転して空きっ腹で追い出されるのかと思った。
でも問題は、食べた後に、どうすればいいかのほう。
この世界で気付いてすぐ、彼に拾われたので、この人が私の物語の重要人物なんだと思ったのに。額の赤い点がなければ、彼と私の間には、どんな物語も始まりはしないらしい。
恋愛ものじゃ、なかったんだ。
「あのう……赤いの、聖刻だけど消えちゃったってことは?」
燃えおちる書類を見つめていたイルスの目が、ゆっくりとこちらに向けられた。まだ言うか、という、彼の気持ちが、ものすごく率直に表現されている顔つきだった。
「聖刻は、神殿種であることをあらわすための聖なる刻印だ。一生消えない」
「私がもし、その神殿種だとしたら、なにかまずいことでも?」
おどけた仕草で、私がたずねると、イルスは暖炉のそばで腕組みをして、笑いをこらえているような顔をした。笑うと案外、若いんじゃない。二十歳そこそこくらいに、彼は見えた。
「お前はこの大陸の生まれじゃないらしいな」
確信めいた彼の指摘に、私は仕方なく頷いた。私はこの世界の人間ですらない。私は旅人で、よそ者で、遠からず吹きすぎてゆく風のようなもの。それをどうやって彼に伝えよう。
「隣大陸(ル・ヴァ)から来たのか」
「たぶんもっと遠くから」
曖昧に答えた私を、イルスは怪訝そうに見た。
「素っ裸でか」
するどいツッコミだった。
私は物語を渡り歩く風。前にいた場所で身につけていたものは、次の場所へ持ち込むことは許されていないらしい。だからいつも気付くと裸で立っている。今回は女の子だったけど、次はおっさんかもしれない。なかなか大変なのだ。
「テル」
真面目な顔で、イルスは私の名を呼びかけた。子供を諭すような口ぶりだった。
「浜に裸で立っていても罪にはならないが、神殿種のふりをすれば、神殿への不敬罪で処刑しなければならない。近隣の者が、立っているお前を見つけて腰をぬかし、夜警隊(メレドン)に通報した。口止めはしたが、もし神殿に知れれば、お前は殺されるだろう。火刑は苦しいぞ」
……死にオチ?
私は思わず視線をはずして、自分の爪先を見下ろした。死ぬのは、いやだな。
「冗談で、神殿種のことを口にするな」
彼の静かな忠告は、ずしりと重みを持っていた。
「額に赤い点を描いただけで、死なないといけないなんて、おかしな世界」
私が思った通りのことを言うと、イルスは奇妙なものを見るように、しばらくの間、私をじっと見つめ、そして言った。
「俺もそう思う」
かちり、と何かのスイッチが入るような感触があった。何かが切り替わるような。たぶん私は物語の核心に触れた。あの何気ない一言で?
執務机の椅子の背に、私に着せかけてくれていた薄地の外套が戻ってきていた。イルスはそれを慣れたふうに身につけ、卓上にあったクリスタルの鈴をとって、りんと鳴らした。
鈴の音に呼ばれたように、扉が開いて、執事らしき初老の男が無言のまま姿を見せた。
「夜警隊(メレドン)を招集してくれ。それから族長に今回の件を報告しておいてくれ。俺は出かける」
一度にいくつもの用件をまとめて伝えるのは、彼の癖みたいだった。
「どちらへ」
「夜警隊(メレドン)を労いに」
「娼館(ルパーナ)でございますか」
執事は感心しないふうに顔をしかめた。イルスはいかにも面白そうに笑った。
「悪いか」
作品名:湾岸の風〜テルの物語 作家名:椎堂かおる