湾岸の風〜テルの物語
第三幕
翌朝、私がエレノアに旅支度を用意してもらって、すっかり出発の準備が整っても、むかつくことにイルスは寝ていた。
別れが気まずくて寝たふりをしているのではないかと期待して、エレノアとこっそり見に行ってみたけど、イルスは本当にぐうぐう寝ていて、通りすがりの猫が踏んでも目を覚まさなかった。
「叩いて起こす?」
エレノアが、枕元で拳をふりあげ、やる気まんまんで私にたずねた。
「いいですよそんな」
「でも失礼しちゃうじゃない。寝てる場合かっていうの」
エレノアの言うとおりだった。だけど起きられても、なにを話していいか分からない。さよならは、昨夜もう言ったような気がする。
「エレノアさん……」
私は足元に置いていた、旅の荷物を抱え上げた。
「もし自分が神殿の人に火刑にされそうになったら、イルスは助けにくると思います?」
真面目に質問した私を、エレノアは少し、わけがわからないという表情で見つめ返してきた。
「さあ……来ないんじゃない?」
「どうしてですか」
「どうして、って。なんとなくだけど。だってもう助けようがないでしょ」
エレノアの言葉は、仮定の話にしても、あまりにもあっさりしていた。
「エレノアさんは、それで悔しくないんですか」
「なにが悔しいのよ」
「助けにきてほしくないんですか」
私がひそめた声でせき立てると、エレノアはやっと、あーなるほどねという顔をした。
「テル、あんたね、そこまで考えるんなら、もうちょっと先まで想像してごらん。自分のせいで、イルスが死ぬかもしれないんだよ。あんたはそれで嬉しいの? あんたがイルスを好きなんだったら、そういう時にはむしろ、助けに来るな馬鹿野郎って思うんじゃないの。それが本当の愛よ」
それは私にとって画期的な発想だった。私はあぜんとした。
私は試しにエレノアが言うように、想像してみようとした。でも、できなかった。もし助けに来てくれたら、私はきっと嬉しい。見殺しにされたら、つらい。悔しい。それが私には、限界いっぱい。
「愛っていうのはね、男にもらうものじゃなくて、女が与えるものなの。あんたも、もうちょっと成長して、ほんものの女になれば分かるわ。その時は、どんな男もあんたにイチコロよ」
にっこりと微笑んで、エレノアは保証するように何度も頷いてみせた。
私が与えられる愛? そんなものがあるだろうか。
自分になにができるかって、考えてみたことがなかった。
私は、自分の物語が向こうからやってくるのを、ただ待っていただけだった。
不意に、ひとすじの風が私の耳元の後れ毛をなぶって吹きすぎていった。
部屋の中なのに?
暖かく吹き続ける風が、私の髪だけを優しくなびかせていた。この世界にやってきた時にも、同じように風が吹いていたっけ。
そうか。私はまた旅立つんだ。ここでの私の物語は終わろうとしている。
甘い風の香りをかいで、私は忘れていたことを思い出した。
私は、この物語の主人公だったのだ。
「エレノア、イルスを起こして。見せたいものがあるの。神殿の前の広場に来てって、たのんで」
もらった荷物を足元にのこして、私は裸足のまま、部屋を駆けだした。まるで風のように。
驚いたエレノアの声が私の名前を呼んでいたけど、私は振り返らなかった。
作品名:湾岸の風〜テルの物語 作家名:椎堂かおる