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靴下の記憶

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 彼は簡単だ。彼は出て行ったから。洋服、靴、本、その他細々した自分の物をあらかた持っていって、新しいアパートを借り、彼の手元に残った片方の靴下は哀れにもゴミ袋に捨てられただろう。私の気配のない生活を心機一転始めているのだ。彼の新しいアパートには私の痕跡など何もない。洗濯籠は小さいだろうし、余分な皿はないだろうし、ベッドはきっとシングルだ。真っ白でまっさらな部屋。
 だけど私は違う。部屋には彼が暮らしていた痕跡がどこまでも残っている。私がずっと言い訳をし続けなければ忘れられない程、彼の痕跡は残っている。そして今もこうして靴下を残し、私に突きつけるのだ。「お前は置き去りにされたんだよ」と。
 私は靴下をぼんやりと見つめた。
 この靴下のことは、私は記憶にない。彼がいつ履いていたものか、どんな場面を見ていたのか私にはわからない。洗濯を干した時に見た覚えはある気がするけれど、似たような靴下は何足もあった。どこにでもある無地のグレー。そんな目立たない靴下を、彼がこの部屋にいた時には意識もしなかった。
 この靴下は見ていたのだろうか。
 愛し合った瞬間を。お互いの未来を疑いもしなかったあの一瞬を。そしていつの間にか離れていったあの日々を。会話がなくなり、お互いの行動が癪に障るようになり、料理の文句や話し方や服の趣味や、そういった細々したことで言い争いが増えていったあの日々を。
 もしかしたらこの靴下は、ベッドの上で抱き合った時に床の上でひっそりと、愛を囁く声を聞いていたのかもしれない。自分達の未来について微笑み合って話していた時、ソファに座る二人を見ていたのかもしれない。食事の時、いつの間にか長くなった沈黙の重さを、足元で気付いていたのかもしれない。苛立ちのあまり彼が近くの本棚を蹴り飛ばした時に履いていたのかもしれない。その時上がった木材の悲鳴を誰よりも近くで感じたのかもしれない。思わず私が皿を投げてしまった瞬間、最も間近で粉々になった皿を見ていたのかもしれない。愛情が粉々になってしまったあの瞬間を、床に飛び散った破片を踏むことで私以上に知っていたのかもしれない。
 だけれどその時々に履いていた靴下を私は一つも思い出すことが出来ない。
 服ならある程度は思い出せる。新しい服を買えばお互いにそれに言及したこともある。似合うとか似合わないとか、そういう軽い会話の中で。時には喧嘩になった時もあるし、逆に愛されていると感じたこともある。愛用していた整髪料だってそう。「ついでに買ってきて」と言われて買いにいった事も何度かあって、一度メーカーを間違えてひどく文句を言われたから、否応なしにどこのメーカーの物が好きかを覚えた。好きな食べ物、嫌いな食べ物、使っていた歯ブラシ、そんなものはいくつでも思い出すことが出来るのに。なのに、こうしてただ一つ残された靴下のことは何も覚えていなかった。
 どうして彼と別れることになったのか、それを何よりも近くで見ていたかもしれないものなのに。私達が取りこぼしてきたものを全て吸い込んでいるかもしれないものなのに。
 覚えていることが出来ていたなら、私は彼に置き去りにされずに済んだのだろうか。
 でも私の前には、過ぎ去った些細な日々を知っているかもしれない靴下が片方、不完全に打ち捨てられている。それだけなのだ。
 私はいつの間にか、靴下に模様が出来ていることに気がついた。薄いグレーの中に、濃いグレーが点々と散っていた。触れるとしっとりと濡れていた。涙だった。
 私は彼と別れてから、初めて泣いているのだと、やっと気がついた。
 私は彼を、愛していたのだ。多分、私が思っていた以上に。こうして泣いてしまって、別れたことを認めたくない程度には。泣いてしまって、彼を過去にしてしまうことを恐れる位に、彼を愛していたのだ。まだらになった靴下を見ながら、私は恋の終わりを知った。
 きっと私はこの靴下を一生忘れないだろう。例え、無残に捨ててしまっても。
 片方だけの靴下は、みるみる私の涙を吸い取っていった。
作品名:靴下の記憶 作家名:珈琲