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靴下の記憶

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 携帯電話の目覚ましが鳴ると、私はベッドの上で手をさ迷わせた。携帯電話はどこに置いたのだろう。窓際でブブブ、と振動している携帯電話をようやく見つけ、私はやっと起き上がった。一つだけの枕がダブルベッドの中でぽつんと置かれている。寝相が悪い私にとってダブルベッドは墜落の危険を減らす。だから気に入っている。
 アラームを止めてしまうと、遠くで鳴く雀の声以外は何も聞こえなくなった。
 ベッドから離れると、誰もいない台所で私は朝食の準備をする。米は炊き過ぎたものが残っていたはずだった。野菜を切り過ぎたので、私はタッパーを出す。人参、玉葱、ピーマンをスライスしたそれをタッパーに入れ、晩御飯への活用の仕方を考えながら、白い皿を用意してフライパンに油を敷く。そうして出来上がった野菜炒めと御飯とインスタント味噌汁を誰もいない机の上に並べる。
 日曜日だから、誰に迷惑をかけることもないのだが、癖でさっさとパジャマから着替えてしまう。朝食を食べたり皿を洗ったり、この一週間のニュースなどを見ているうちに洗濯機が電子音で私を呼ぶ。洗濯機から中身を取り出して籠に入れる。大きめの籠には私の下着、シャツ、スカート、タオル、パジャマが小さく蹲っている。
 そうして数少ない洗濯物を干してしまうと、私は一息に暇になった。
 仕事はなく、出かける用事もなく、食料品も切れていない。
 ふらっと私は部屋の中を見回した。所々傾いた本が入っている本棚はまだまだ本が入りそうだ。本屋に行って本や雑誌を買うのもいいかもしれない。使っていない棚もあるし、新しい服を買うのもいい。靴箱もまだスペースが十分あるから新しい靴を買うのもいいだろう。
 ブラウス。サンダル。ワンピース。スカート。パンプス。ジーンズ。
 私はその穴を埋める物を想像したが、心は浮つかずどこか億劫だった。日曜日の人込みに入っていく元気を、今の私は持っていなかった。
 沈黙を持て余してテレビのチャンネルを軽く回してみたところで、さして興味を引く番組はなく、ひどく陰気な顔で政治の問題について話していると思えば、コメディアンの笑い声がきんきんと響き耳を痛くした。私はテレビのチャンネルを切って、私のすることを考えた。億劫ではあったが、何もせずごろごろとしている気分でもなかった。そうなれば、掃除ぐらいだろうか。
 よくよく見ると、埃が溜まっていたし、ここしばらくまともに掃除をしていなかった気がした。いつから掃除をしていなかったんだっけ、とふと思いかけてやめる。今はあれこれ考えていたい気分ではないのだ。
 とりあえず掃除をしよう。そう思って私は掃除機を探す。ガーガーと音をたてる掃除機を部屋の隅から隅までかけてしまっても、まだ昼食までには随分時間があった。ああ、またやる事がなくなった。いや、まだ掃除が出来る場所が残っているはずだ。本棚の中の本は隙間だらけになって傾いたり倒れたりしているし、洋服も随分整理していないし、棚に埃だって溜まっている。
 そう思いなおして、私は本棚の整理から始める。本棚から本を全て出して、棚自体は雑巾で軽く拭く。出した本は作者名をまとめ、大きさをまとめ、棚の隅から詰めなおしていく。随分なスペースが空いてしまったので、私は一部の本を横倒しにして、本が傾かないように細工した。それでも随分すっきりとして、棚一段分はからっぽになっている。思ったよりも少なくなってしまって、私はやっぱり本をもっと買おう、とうっすらと思う。それだけ終えても、まだまだ時間はあった。
 次は小物が置いてある棚だった。お土産で貰ったようなオブジェが大半だった。埃を被っていたので、やはり軽く雑巾で拭く。棚も同様。これもあっさりと終わってしまった。
 最後は洋服ダンスだった。これは少し骨が折れそうだった。毎日触るところだけに、すぐに乱雑になってしまう場所だった。私は上の引き出しから順に中の物を出していく。
 下着、ストッキング、ハンカチ、靴下……。
 思ったより痛みが激しいものが多く、使わなさそうな物はビニール袋を持ってきて入れた。
 ワンピース、Tシャツ、ブラウス、パンツ、ジーンズ、スカート……。
 棚からはどんどん物が溢れてきた。私はそれらを床に放り出し、畳みなおしていった。痛みが激しいものをぽいぽいとビニール袋にそれらを詰め込んだ。引き出しの奥を探れば探るほどこんなもの買ったっけ、という服がたくさん出てきた。これで全て出してしまっただろうと、一番下の引き出しを覗き込むと、小さな布が引き出しの端の方に転がっていた。私は手を伸ばしてそれを拾い上げた。
 そこにあったのは片方だけの、使いさしの靴下だった。
 無地のグレー。そして男物だった。
 私はばっとそれから手を離した。突然殴られたような感覚だった。どうしてこんな所にあるのか、そこまで考えて、床の上にくたっと横たわった靴下を見て、そして認めざるを得なかった。
 ああ、彼のだ。
 折角忘れようとしていたのに、考えないようにしていたのに、私は靴下を見て、彼のことを思い出さざるを得なかった。
 どうしてここにこの靴下があるか。答えは彼と一緒に住んでいた時に紛れ込んだから。一緒に洗濯機を回し、畳んだ時に紛れ込み、そして私の洋服ダンスに入り込んだ。
 認めたくはなかった。だけれど言い訳が見つからない。何故ならどうやっても私はこの靴下を使うことが出来ないから。
 他のものならどうやっても言い訳は出来る。大は小を兼ねる、と大きめの洗濯籠に言い訳をし、もうすぐ新しい本を、洋服を、サンダルを買うから、と本棚や洋服ダンスや靴箱の空白に呟いた。ダブルベッドは寝相が悪いから買ったのよと嘯き、作りすぎた料理は冷凍すればいいとタッパーに詰め、使わない皿達はいつかお客さんが来た時に、と来る当てもない客を想像した。色違いの歯ブラシの買い置きだって、気分を変えたいときがあるから、と説得することも出来た。
 それなのに彼はこんな靴下を片方だけ残していったのだ。私がどうやっても使えない男物の靴下。それも何度か使った形跡のあるそれを片方だけ、打ち捨てられたように、忘れられたように。どうやっても言い訳のできない靴下を。使うことも出来ない、不完全で哀れな靴下を。彼がここにかつて住み、そして私を置いていったのだということを、はっきりと意識させる最も残酷なものを。
 そう、彼は私を置き去りにした。靴箱の空白、やや大きめの洗濯籠、本が沢山なくなって、隙間だらけになった本棚、何も入っていないもう一つの洋服ダンス、悲しいほど大きなダブルベッドに作りすぎる料理、使わない皿、そんなものをこの部屋に置き去りにしたのだ。思い出したくなかったそのことを、私は思い出してしまった。
 勿論彼がいなくなったのは、彼の一方的な気持ちではない。いつからか笑いあうより喧嘩をすることが増え、共にいることに苦痛を感じるようになっていた。だから別れた。沢山口論をし、酷いことを言われ、そして酷いことを言い、お互いがお互いを傷つけあった結果だった。でも実際彼が出て行ってから、私は置き去りにされたのだと気がついた。
作品名:靴下の記憶 作家名:珈琲