【未】螺子
はじまり
「ねぇ」
誰かが呼ぶ声がする。
幼い声だ。『ねぇ』今度は強めにその声が聞こえる。
頭の中でその声がこだまする。ねぇ、ねぇ、ねぇ。
声が段々と低くなったかと思うと、今度は『おい』であったり、何かは聞き取れないが何らかの言葉を喋っている。
あるときそれは止んだかとおもうと、しばらくの静寂の後また幼い声で『ねぇ』と聞こえ始める。
そんな事が数回繰り返されたあと、瞼の奥に光がみえた。
淡い光だが、どんどん大きくなり無意識のうちに『そろそろ起きなければ』と考えた。
水の底に沈んでいたかのように重たかった体はすぅ、と軽くなり、そしてやっと、目を覚ました。
最初に目に入ったのは茶色い天井。
見覚えのある筈であったその天井に、彼女は『はて』と疑問に思った。
自分の部屋の天井はもっと高くはなかっただろうか。それに、もっと暗かった気がする。
しかし鮮明には思い出せない。次に体をゆっくり起こし、正面に向かい合った窓をみる。
庭には沢山の木が生えていた。
なるほど、明るすぎず暗すぎず。木が光をちょうど良いように入れてくれている。
だが、やはり何かが違う気がする。
思い出せない。一瞬思った違和感がすぐに消え去ってしまう。
ふ、と視線を横にずらすと、ざんばら髪の男と目が合った。
片膝を立てて座り込んでいた男は、少し目を丸くしてこちらをみていた。
二十代半ばといった所だろうか。少し無精ひげが生えているが、整った顔立ちをしている。
しかしこの男は誰だっただろう。
「本当に、今年だったのか」
声が動揺していた。男が発した掠れた低い声を彼女は知っていた。夢から起きる前、一番最後に聞いた声だった。
男は自らの横に置いていた着物をゆっくりと差し出した。
それは薄い桃色の小紋であり、彼女は確かにそれが自分の物であるとわかっていた。
少女がその着物を受け取るのを確認し、男は口をひらいた。
「俺はネジ、あんたは『よもぎ』だ」
まるで言い聞かせるようにゆっくりとした口調だったが、少女はその一言ですべてを理解した。
違和感について考える事を消し去ったと言ってもいいだろう。
男の名はネジで、自分の名前は蓬。
ただその事実だけでよかったのだ。