タジオ幻想
「じゃあ、源泉を見に行かれては? トレッキング・シューズの貸し出しもしておりますよ?」
「トレッキング・シューズが要るようなとこなんて、遭難したらどうするんだ」
「雪が残っているから履くだけで、道はちゃんと整備されてますから大丈夫ですよ」
「アウト・ドアは苦手です」
垣内は「ああ言えばこう言う」的なやり取りが好きだった。特に見目良い男とのそれは駆け引きめいてゾクゾクする。だんだんと会話を艶っぽい方向に持って行き、最終的には相手を赤面させるか、ソノ気にさせるオチをつけるのだが、残念ながら市川は人並み以上の容姿ではあっても垣内の好みのタイプとは言い難く、従って会話も普通にキリの良いところで途切れた。
聞けば部活はずっと上下関係の厳しい体育会系だったとか。小ざっぱりと襟足を短くした爽やかで礼儀正しい彼は、異性に対しては魅力的かも知れない。この手が好みの同性にも通じる魅力ではある。ただ垣内の範疇にないだけだった。スラリとして見えても筋肉の比率が高く、抱き心地が硬そうなのは楽しくない。
――それにもっとこう、匂い立つような色気も欲しいよな。
垣内の好みのタイプを織部も知っているはずである。どうせならもう少しその好みに近づけて欲しかったと、ここに来た真の目的が何であるかをすっかり棚上げにして、恨めしく思う垣内だった。
張り出し窓を開けて腰を掛ける。雪解けの時期特有の、春の気配を含んだ冷たいばかりではない大気が、垣内の分けた長い前髪を揺らした。
「お兄様ったら、待って」
「散歩に出るだけだ。ついてくるなよ」
その春の外気に乗って声が階下から上ってきた。垣内は覘くように身を乗り出して、声の方向に目を落す。中庭を横切る少年と少女が見えた。聞こえた会話から、兄妹であることがわかる。先を行く少年は高校生くらい、後を追う少女は二つ三つ下だろうか。鬱陶しがる兄を追いかける妹の姿は、どこででも見られる微笑ましい構図で、取り立てて見入るほどのものではないはすだが、まとわり付く妹を見る少年の横顔が、垣内の関心を引いた。額から鼻、顎に至る稜線がとても美しく、彼の全体像を否応なしに想像させたからだ。せめてもう少し振り返ってくれればと言う気持ちが通じたのか、少年は垣内の座る窓を振り仰いだ。
垣内は息を呑む。
白が勝った象牙色の肌、自らの体温で上気して内側からほんのりと発紅する頬、意思の強さを感じさせる黒く大きな眼、そして一文字に引き結ばれた唇の輪郭にはまだ子供の丸みが残されていたが、鮮やかな朱を帯びた様とのギャップで、ひどく扇情的に見える。それらが形良い面の中に絶妙に配置され、申し分のない美を形成していた。
天井の高い昔ながらの宿の二階からでもわかる美貌が、垣内に視線を外させることを許さない。ただ少年からは庇か何かで遮られているらしく、視線は合わなかった。彼は元に向き直り、少女をまとわり付かせながら去って行った。
「あれは、誰だ?」
垣内は市川を後ろ手で手招きした。市川は下げる膳を手に持ったまま、張り出し窓から垣内の指差す方を見る。
「ああ、藤堂先生のお孫さんのサクラオ君とミズキさんですね」
「藤堂先生?」
「参議院の藤堂議員です」
政治家に明るくない垣内には、名前を言われても顔は浮かんでこない。
「鄙に稀なる美形だな」
「クオーターだそうですよ」
藤堂家はもともと隣町の大庄屋が出自で居館もそちらにあったが、ここら辺一帯が政治的地盤の一部であるので、三男一家が子供達の長期休暇を利用して滞在すると市川は続けた。
二人の子供達は少年が桜王(さくらお)、少女が瑞姫(みずき)と言った。その可愛らしさは生まれた時から知られ、ことに妹の瑞姫は成長するとさぞかし美人になるだろうともっぱらの評判なのだと言う。祖父の藤堂議員も、目に入れても痛くないほど彼女を可愛がっているとのことだった。
確かに瑞姫は可憐な少女だ。日本人ではありえない薄茶の長い巻き毛が、歩くたびに柔らかに揺れる。雪の白さと張り合う肌の色も異国めいているし、もしかしたら瞳の色も日本人のそれとは違っているかも知れない。どうやら彼女には外国の血の方が色濃く出ているようだった。しかし所詮、西洋人形的な愛らしい美貌で、まだまだ邪気もない。
それに比べ兄の桜王の妖しいまでの美しさはどうだ。子供から大人に向う過渡期にだけ許された、何とも言えない不可思議な色香がある。同性愛に対する関心が薄い田舎では、一緒にいる瑞姫の存在の方が目を引くのだろうが、都会では同性の目も集めているに違いなかった。
――目の保養とは、ああじゃなけりゃ。
『この人間の子のそれこそ神に近い美しさに、感嘆した。いや、驚愕したのであった』(脚注1)
「これじゃ盗作だ」
割り箸が入っていた和紙の筒袋に書いた一文を見て、垣内は独りごちた。昼間に見た少年のことを思い出しながら何気なく書きとめたのだが、よくよく見るとトーマス・マンの『ヴェニスに死す』の一節だった。くしゃりと丸めて脇に置き、夕食の刺身を口に運ぶ。
「倒錯は今に始まったことじゃないでしょう?」
向かいに座る織部が、垣内の独り言にツッコミを入れた。
「失礼な。俺は未だかつて盗作なんてしたこっ…、待て、織部、俺が言ってるのは『盗む』『作る』の盗作であって、おまえが想像したのとは違うぞ」
垣内は今丸めた箸袋を織部に投げつける。それが醤油小皿にダイブする寸前に、織部は受け止めた。開いて中を見ると少し関心したような声音で、「書く気になったんですか?」と尋ねた。
「まさか。昼間、理想的な美少年を見かけたんだ」
垣内は藤堂議員の孫・桜王のことを話した。
あれから垣内は藤堂兄妹が向ったと思われる宿の清流に下りた。けもの道に毛が生えた程度の川べりの遊歩道を、さも散歩している風を装って歩き彼らの後を追ったのだが、結局、姿は見つけられなかった。それで宿の人間や、みやげ物売り場の店員にさりげなく藤堂兄妹のことを聞いた。「きれいな子供を二人見かけたけれど」と一言尋ねるだけで、誰もが詳しく教えてくれる。まだ幼児の頃からあの二人を知っているせいか、まるで親戚の子か何かのように、親しげに。
「『さくらお』って『桜の王様』って書くらしい。普通なら名前負けしそうだけど、これがまたよく似合ってるんだ」
「そんなことをリサーチしてたんですか?」
「だって暇なんだもん」
「『だもん』って、自分を幾つだと思ってるんです」
「誰かさんと同い年の三十六歳」
垣内は織部を見やった。ほんの少し、織部の口角がへの字の下がる。
「だいたい、暇なら書いたらどうです? 理想的な美少年も現れたことだし」
理想的な美少年が現れても創作欲をかき立てられるとは限らない。織部が用意した目の保養=市川よりは垣内の好みに近いが、現実離れした存在に過ぎた。現に彼を見て出てきたのは、既製作品の一文。よしんば創作の題材としたところで、一歩間違えば『ヴェニスに死す』の主人公よろしく、あの美貌に引きずられて翻弄されそうだった。
「相手は十六才の子供なんだから、手を出したら犯罪だ」
一瞬、黙りこくった垣内を、織部は探る目で見ている。