nameless
誰にでもなくそう呟き、僕はベンチから立ち上がった。中庭を横切り、庭内を四角く縁取る植え込みに沿って歩く。しとしとと雨に濡れた葉が滴をこぼしていた。それを何気なく眺めていると、植え込みの中に何やらゴミらしきものがあるのを発見した。なんだろうと思い、草をかき分けて手に取ってみると、それはくしゃくしゃに丸められた紙きれだった。広げてみると、それは上品な装飾が施された便箋だった。そして、その中央には小さな文字でたった一言。
「…………」
僕は手紙の落ちていた場所から、真っすぐ上の方へと視線を移した。そこにはあったのはジルの部屋だった。
便箋には宛名や差出人の名前は書かれていない。だからこれを誰が書いたか、またこれが誰に向けての言葉なのかは分からない。それでも……。
あの日、ジルと別れた直後に感じた、あのもやもやの正体がようやく分かった。
――そうか、僕もこう言えばよかったんだな。こんな簡単なことでよかったんだ。
「……ありがとう」
ジルとの思い出はすべて失ってしまった。だけど、僕たちはこうして別れた後も思いを重ねることができた。これだけで、僕は溺れずに生きていけそうだ。
ぽつりぽつりと雨粒が便箋を濡らし、紙面がじんわり滲んだ。僕は慌てて便箋をポケットの中に突っ込んだ。
最後に、僕は彼女の部屋を仰ぎ見て、その場を立ち去った。
遠くの空では雲が大きく裂けて、太陽がそこから顔をのぞかせてるのが見えた。