アイドルトマト
「とまっちゃーん、元気してたかーい」
おれはそう呼びかけながら、トマトが植えられた中を歩き回った。急に独り言のようなことを呟いたからといって、おれの気が狂ったわけではない。おれの呼びかけは、その応答を期待して為された、正常の行為なのだ。ほどなくして、ある方角から、少女の可愛らしい声が聞こえてきた。
「元気よぅ、管理人さーん」
おれはその声が聞こえてきた方角へ、いそいそと足を運んだ。顔には自然に笑みが浮かぶ。おれは声の聞こえた場所へたどり着いた。そこに、人間の姿は見えない。当たり前だ、この栽培室へは担当の研究員しか入れない。つまり、ここにはおれ以外の人間はいないのだ。
「管理人さん、ごきげんよう」
その、ソプラノの声色は、おれの足元から聞こえてくる。そう、おれの呼びかけた相手、そしてそれに応答してくれた相手というのは、何を隠そう、このトマトなのであった。
「よう、とまっちゃん。元気そうで何より」
まだ赤くなりきっていない小さなトマトは、おれを見ると楽しそうに揺れた。
「おっと、そんなに揺れると落っこっちまうぞ」
「あら、そうだったわね。ごめんなさい」
このトマト、通称「とまっちゃん」は、揺れるのを止めて、大人しく茎にぶらさがることにしたようだった。とまっちゃんの正式名称は、「歌う! 踊る! 会話も出来る! 最後には美味しく皆様のお口へ……アスバオの明日を担うアイドルトマト、とまっちゃん」という。そう、このとまっちゃんは、アスバオ会社の技術を結集させて造った遺伝子組み換えバイオトマトなのだ。
開発を任されたのは勿論おれ一人だったのだが、会社が提供してくれた人材、機材、その他諸々をフルに活用しても手に余るほど、とまっちゃんの開発は容易でなかった。まったく、このトマトを造り出すためにどれほどの苦労をしてきたことか。
だが、その甲斐あって、とまっちゃんは今年の正月、ようやく完成した。とまっちゃんには人間のような顔があり、泣きもすれば笑いもする。会話もするし、しなやかな身のこなしまで獲得した。現在こうしておれと会話できるのはこのとまっちゃん一人だけで、おれにとっては娘に等しいほど、手塩に掛けて育てた相手なのだ。だから、可愛いこと尋常ならず、おれは毎日優しく話しかけてやっては、アイドルトマトとしての嗜みを教えるのだった。
そもそも、アイドルトマトというコンセプトは、「消費者の皆様が食材を食材としてしか認識できなくなって久しい現代に、植物も同じ生き物なのだと再認識していただく」ことを目的とした、実に趣向新しい、斬新な意見によるものであった。何故それがトマトという植物によって実行されることになったのかは寡聞にして知らないが、おそらくはその見た目の明るさ、美しさ、そして華やかさに理由があろうとおれは考えている。
それはともかく、とまっちゃんは順調に育ち、そろそろ頬に年頃、否、食べごろを示す赤みが差してくる頃合だ。人間で言うなら、十七、八か。花も恥らう純情なりし乙女、というところ。アイドルトマトの売出しにはもってこいの時期にさしかかっているわけだ。
「管理人さん、今日はどんなことを教えてくれるの」
「そうだな、人間に食べられる時の礼儀でも教えておこうかな」
とまっちゃんは上目遣いでおれを見上げ、真剣に聴講しようとしている。おれは彼女と目線を合わせるためにしゃがんで、話を始める。
「まず、人間との良好な関係をつくるのが先決だ。そうしておけば彼らは、君をただの食材としてではなく、きちんとした意思と良心とを持ち合わせた、一個の生命体であるとみなしてくれるようになる。そうなれば、君を食べる時にもそれ相応の敬意を払って、然るべき手順を踏んだ調理をしてくれるはずだ」
とまっちゃんは肯くように微かに葉をそよがせた。これも、とまっちゃんのコミュニケーションツールの一つなのだ。
「例えば君がサラダにされるとしよう。君は大人しく人間の手に委ねられ、冷水による麻酔を受ける。それで身体は痺れるから、包丁に切られようとも痛いわけはない。皿に盛られる時、自己主張しようとしてはいけないよ。サラダは見栄えが大切なんだ。君の赤は綺麗だけど、他の菜っ葉類との折り合いを考えて、人間のなすがままにされていればいい。ここまでは、分かるね?」
とまっちゃんは相変わらず真剣な面持ちで葉を動かす。おれは肯いて、その先を続ける。
「アイドルは、何をされようとも嫌がっちゃいけない。きっと君は、ドレッシングでべたべたになった挙句、目を開ける暇もないままに人間の口に入れられてしまう。でも、それが君にとっては幸福なんだ。分かるかい……」
とまっちゃんは肯く。
「つまりだ。アイドルトマトたるもの、どんな状況で食べられることになっても、人間に愛想を振りまくことを忘れてはならない。いいかい、どういう状況で食べられるかは分からないんだからね……」
最悪の場合、存在を忘れられて放置され、最終的に腐ってしまうことも考えられたが、アイドルたるとまっちゃんにはそんなことを教える必要はないと考え、言わずに置いた。とまっちゃんは神妙に聞いていたが、やがて「分かったわ」と呟いた。
「そうか、やっぱりとまっちゃんは飲み込みが早いな」
おれは、とまっちゃんのつるつるとした上部――それは彼女の頭に当たった――を人差し指で撫でてやる。人間の子供に対してするのと同等の愛情をこめて。とまっちゃんはくすぐったそうに笑い、葉を揺らした。
「ねえ、管理人さん」
「なんだい、とまっちゃん」
おれは、頭を撫でてやるのを止め、とまっちゃんを見る。とまっちゃんは純粋な眼差しでおれを見ていた。
「私、いつになったら出荷されるのかしら」
「そうだなあ。もうこんなに赤くなってきたから、そろそろおれの方から、会社に相談してみるよ。宣伝にだって出なくちゃいけないだろうし」
「ああ、早く出荷されたいなあ」
とまっちゃんは夢見る表情で呟いた。
「私、CMっていうのに出ることになるのよね」
「ああ、そうだよ。とまっちゃんは一躍人気者間違いなしだ。こんなに可愛いんだから」
おれは、彼女と二人して、ああだこうだと出荷後の夢について語り合った。おれは人間で、彼女はトマトである以上、別れが訪れるのは必至である。だが、それはあまりにも当然の前提条件であったため、二人ともわざわざそれに触れる事はなかった。
とまっちゃんとの会話は総じて楽しいものだった。恐らく、人間と話すよりも、ストレスを感じずにいられる時間であった。出勤してからの一番の楽しみが、彼女との会話だった。
「ああ、そろそろ時間だ。おれ、帰らなくちゃ」
端末機のアラームが鳴り、退社時刻を告げた。おれは慌てて立ち上がる。とまっちゃんは、礼儀正しく慎ましやかに別れの礼をした。
「あら、もうそんな時間だったのね。お引止めしてごめんなさい」
「良いんだよ。とまっちゃんと話すのが、おれの最大にして唯一の楽しみなんだから」
とまっちゃんは、嬉しそうに微笑む。おれは最後に彼女の葉を軽く握って、栽培室を出た。