人間屑シリーズ
もし彼女の話が本当ならば、それはしかるべき機関に救いを求めるべきです。しかし彼女の話が嘘ならば? ただただ生きるのに疲れ果てた結果の行動だとしたら? ――時給七百八十円の私に一体何が出来るでしょう?
「……私は……買えません……」
俯いて私は言いました。
「……そっか。そりゃそうだよね、私の事なんか好みじゃないんだもんね」
そう言って彼女も俯くのでした。
そんな事はありません。私がもし不能で無かったら、やはり他の多くの男性が彼女にしてきたように、私も彼女を汚していたに違いないのです。私には振りかざす正義すらないのです。
「違います。あなたの事は……本当に……」
私が言いよどむと、彼女は再び私に微笑んでくれました。
「ううん、アリガト。私に何もしてこなかった人って、オッサンが初めてだよ。みーんな説教垂れながら腰振ってくもん」
あはは! と彼女は笑いました。それが私にはとても寂しく映ったのです。
彼女はやはりまだ天使のままなのです。ただ少しだけ迷っているだけなのです。
「私が……私が代わりに返済しましょう!」
無意識でした。自分でも自分が何を言ったのかを、知覚出来ない程に。
「……一千万だよ? オッサンそんなにお金持ってるの?」
ありません。あるはずがない。
「私の仕事はコンビニエンスストアのアルバイト店員で、時給は七百八十円です」
「絶対無理じゃん」
「……三食、かばやきさん太郎をおかずに白米を食べ続けて、食費を浮かせば少しずつなら……なんとか……」
「ぷっ! かば焼きさん太郎ってマジウケるんだけど。つーかそんなんじゃ倒れちゃうんじゃない?」
「三日に一度、卵かけご飯を食べるということで……なんとかなるんじゃないでしょうか?」
彼女はお腹を抱えて笑っていましたが、私は至って真剣なのでした。
出会って間もない彼女に、何故こうも肩入れするのか自分でも分かりません。しかし放っておいてはいけないと、そう思ったのです。
「アリガト、気持ちだけで嬉しいわ。てゆか簡単に百万なら稼ぐ方法あるんだけどね……」
何でしょうか? 私に協力出来る事ならばしたいものです。
「それは一体どうすれば……?」
私が尋ねると彼女は、手をひらひらと振りながら笑います。
「あるけど、私はそれをしないって決めたんだ。元はと言えば私が悪いんだもん。他の誰も巻き込みたくない……。だから売ってるの、私を」
努めて明るく彼女は言いましたが、私にはそれが切なくて苦しくてしょうがなかったのです。なぜ私は時給七百八十円のバイト店員なのでしょうか。ボーナスも無く退職金だってない私の給料では、一千万など決して掴めぬ大金です。
『一千万で殺害されてみませんか?』
ふと先ほどの高橋くんの言葉が脳内を掠めました。
本当に一千万で私の命が売れるというのなら、この前途多難な天使を救う殉教者となりたい。その方がよっぽど世の中の為といえるでしょう。しかし現実には……そんなうまい話など、ありはしないのです。
「ねぇ、名前教えてよ」
「名前……ですか?」
「うん、名前。」
私は彼女に伝えます。
「私の名前は梅林惣一郎、今年で四十四歳になります。職業はコンビニエンスストアのアルバイト店員、時給七百八十円の恥ずかしい大人です」
彼女は微笑みます。天使のように。
「そっか、じゃあ惣ちゃんって呼ぶから」
はい? それは一体どういう事なのでしょうか。私とここで別れるだけなら呼び方なんて関係ありません。
胸の後ろの方が、ズクンっと音をたてました。
「惣ちゃんは私を買わなかった人。そんで私の為に泣いてくれた人だから。決心が揺らいだ時には、遊んでもらうから」
彼女はそう言うと、帰り仕度を始めました。
「ねぇ、今から一緒に映画でも見に行かない? 私、見たい映画があるの」
そう言って彼女は私の手を取ります。
きっと私は彼女の導くがまま、映画館へ行くのでしょう。
不能でなければ他の男達と同じように彼女を買い、汚していたに違いないのに。それを隠して彼女と過ごすのでしょう。彼女はそんな私をどこかで支えにしてしまうのでしょうか。
こんなろくでもない私の“生”自体が恥です。生きている事が恥ずかしくて申し訳が無いのです。
それでも、私は生きていくのです。
何も出来ない自分を恨みながら、彼女の幸せだけを願って。
自分の中のドロドロとした穢れを、不能という不幸に守ってもらいながら。
けれど……。
彼女がいつまでも天使のように笑っていられるよう願うこの気持ちだけは真実なのです。
生き恥晒し 了