人間屑シリーズ
或る男の妄念
男は作家だった。
駆け出しではあったが、男の目は未来を見据え希望に満ち輝いていた。
男には家族があった。
美しくは無いが家庭的な妻と可愛い一人娘。
男は幸福の中に生きていた。
男は本を出版する事となった。
以前から小さな文学誌で書き続けていた小説が認められ、晴れて書籍化される事になったのだ。
男は喜び、また家族も涙しながら喜んだ。「あなたが認められたのね」と。
男は至福の中で生きていた。
しかしそれまでだった。
男の本は決して売れる事は無かった。
出版社は大量の在庫を抱え、二度と男に作品を依頼する事は無かった。
あちらこちらの賞という賞に手当たり次第に作品を送ったが、男の小説を認めてくれる所は一つたりとて有りはしなかった。
それでも男は書き続けた。自分は作家なのだと、本だって出ているのだと、そう高くプライドを持って。
しかし男に光があたる事は二度と無かった。
それでも男は諦めなかった。働きもせず、食事も睡眠も最低限にし、残りの全ての時間を執筆に捧げた。妻に微笑む事も無い、娘の名を呼ぶ事も無い。男はただ黙々と原稿用紙に向かった。
妻と娘が出て行った。「さようなら。あなたは夢の中で生きて下さい」という置き手紙一つ残して。
男はその手紙を読むなり鼻で笑った。自分の崇高なる芸術が理解出来ないとは、出版社の人間共と同じだな、そう思った。
男にとっては妻の残した手紙より、男の元へ唯一届いた読者からの手紙の方が遙かに価値があった。「あなたの小説で救われました。次回作を待っています」という内容がしたためられた藁半紙に書かれた手紙。
男はこの手紙の主が自分の小説で救われたと、そして今も次の小説を待っていると真剣にそう思っていた。男には書かねばならない理由があった。自分を理解してくれる者の為に書き続けなければならなかった。
けれど男の小説は見向きもされなかった。
ある日、三流雑誌で品の無い大衆の喜びそうな官能小説を書いてみないか? という声がかかった。
男は生活苦だった。
魂を売るつもりで官能小説を書いた。それも芸術性のかけらもないようなエロ小説を。
しかしそれすら売れなかった。
ついに男は住む家を失った。
家族も無く、家も無い。
男は胸ポケットに己の作家人生で手に入れた唯一の財産ともいえる、あの手紙をしまい込んで路傍に立ち尽くした。
男の胸には捨てきれぬ熱。原稿用紙とペンだけを手に、男は一人さすらった。
何日も、何か月も、何年も――