A Groundless Sense(1)
第一章 KANTO
1
豊島(とよじま)カツシは、薄暗い部屋の隅で机に向かっていた。
ヴァーチャルスクリーンのほのかな明かり。
少年は黒縁のメガネを外し、小さな布でレンズをふくと言った。
「だからさ、そういうことはもうちょっと先でもいいだろ?」
画面の中の女は、まっすぐな黒髪をいじりながらつぶやいた。
『前から言おうと思ってたけど、似合わないよ、それ』
「うるさいなぁ」
カツシはメガネをかけ直した。度は入っていない。
『ごめんね。もう耐えられないの』
少女は画面の端に人差し指をやった。ログアウトするつもりだ。
「きっと見つかるって!」
指が止まった。瞳がこちらを向く。
『いつ? 今日? 明日? それとも百年後?』
「それは……」
カツシは視線を落とす。別の半透明ウィンドウに映ったカレンダーが目に入った。物心ついたときから同じカレンダー。一月一日は必ず月曜日で、五月二十日は必ず日曜日だった。なぜだろう……。
「ウッ!」
頭を抱える。
少女はため息をついた。
『また〈常識〉のこと考えちゃったのね?』
毎朝九時に高校のアイコンをタッチして授業を受ける。飲料水は世界をとりまく環状水道からパイプを通じて供給され、六月と十二月は節電五十パーセント、各層の床から天井までの高さは二一三メートル五〇、気温計は二十二℃を常にさし、夕方六時になると天井の光が少しずつ暗くなっていく。主食は配給制で、人や動物を故意に殺してはならず、何人もKY区域に入ってはいけなかった。
「とにかく、死ぬのだけはもうちょっと待ってくれ」
『どうしようかな』
板橋(いたばし)ミナト……この色白の女子高生とは、知り合って以来、いつもこんなやり取りだった。学年は同じだが学校は別で、カツシは第四層、ミナトは第十五層の住民だった。出会ったきっかけは、お互い等身大の化身(アバター)で、電脳仮想世界をうろうろしているときだった。相手が望んだため、次の週からは顔をさらしてTV通話するようになった。
ただ虚しい……それがミナトの口癖だった。彼女には趣味はおろか、好きな事というものがまるでなく、ほとんど習慣だけで生きていた。電脳世界も単なる逃避にすぎず、甘い菓子の話で誘っても無駄だった。聞けば成績は常に学年三位以内だそうだが、勉強が好きなわけでもない。一方で、死に方や死に場所にかけてはやたら詳しく、オタクと言えるほどだった。
今日はどう説得しようか。そう悩んでいると、ミナトが先に口を開いた。
『どうして死んではいけないの?』
「そ、それは……」
『それは?』
ネタはもう尽きていた。カツシは顔を横に向けた。
「常識だからさ」
『ヘンなの』
ミナトは口もとを緩める。
『守らない人、いっぱいいるじゃない』
なんだか急に腹が立ってきた。
「じゃあ聞くけど、そんなに死にたいなら、なんで今すぐ実行しないの?」
『……』
少女の顔が曇った。
しまった。カツシは胃のあたりがジリと熱くなった。
『わかった。そうする』
ミナトは机の引き出しを開けた。
「だーっ! 今のなし! あ、いや、だめな理由、一つあった!」
『……』
細った手は、それを無視して目的のものを探っている。
「その……いなくなったら俺が困る。困るっていうか、ええと、何ていうかな……」
ミナトの首筋のあたりがキラリと光った。
カツシは身を乗りだす。
「話聞けって!」
『聞いてるよ』
少女は長い髪を銀色の櫛でとかしはじめた。
「ブラシだろ、フツー……」
少年はどっとイスにもたれた。
『カツシ君が困ることは、あまりしたくないな』
小さな笑顔を残して、画面は虚空に消えた。
あまり……か。
カツシは席を立つと、窓のカーテンを開けた。
どこまでも続く灰色の壁に、この窓と寸分違わぬ正方形が縦横無数に並んでいる。中央広場へ行けば、同じ規格の建造物が放射状に等間隔で並んでいるのがわかる。いつだったか、別の層へ出かけたときも、自分が生まれ育った『四層』とまったく同じ造りをしていた。
「なんでだろう……ッツ!?」
あまりの痛さに頭を抱えた。
消し忘れた小ウィンドウ。電子カレンダーがふと目に入った。明日は月に一度の登校日だ。
2
カツシが所属する高校は、自宅と同じ建物の中にあった。といっても、遅刻ギリギリまで寝ていられるような近所ではない。第七十七棟と七十八棟の間の通りを、中央広場と反対方向へ歩くこと二キロ先にあった。
居住部とほとんど同じ造りの、こぢんまりとした玄関を抜け、エレベーターで五十六階へ。ドアが開くともうそこは高校の廊下だった。今日は二年生の登校日、見知った顔が行き来する。お決まりの挨拶は『リアひさ』(リアルでは久しぶり)だ。
廊下の突き当たりにある一組の教室。
ドアを開けると『リアル』な冷やかしが待っていた。
「よう変態」「死神ちゃんは元気かい?」
中学の頃からの腐れ縁どもが、別々の席で笑っている。
「おまえらなんかに話さなきゃよかったよ」
カツシはどかっと自分の席についた。
前の席を囲んで女三人が盛り上がっている。座っていた一人が振りむきざまに言った。
「で、この頃はどんなプレイしてるの?」
「うるせー。俺はMじゃねー」
「ぜったいMだよ。ドM。なんで頭痛起こすような自滅ばっかすんのよ」
「しらねー。考えるとそうなるんだよ」
「バカねぇ。常識があるおかげで、余計なこと考えなくてすむんじゃない」
「……」
悪友が死神よばわりする板橋ミナト、彼女にも画面の向こうから同じことを言われた。
やがて、担任の若い女教師がやってきて雑談をはじめた。授業の話はない。そういったことは自宅でリラックスして聞くのが校則以前の常識であり、月に一回の集まりは顔見せのプチ同窓会のようなもの、というのも常識だった。
登校日の出席率はほぼ一〇〇パーセントだ。
面倒だな。っていうか誰もサボりたいって思わないんだろうか? カツシは一度じっくり考えたことがあったが、頭痛と嘔吐にやられた。以来、校則には従うことにしている。
生活指導の話でしめくくると、女教師は満足そうに教室を出ていった。思春期の男どもが数人、気配もなく教室から消えた。カツシは好みではなかった。もっぱら脳みそは、ネットゲームや仮想現実空間『トゥルーライフ』のことでいっぱいだった。
高校を卒業すれば、それぞれの能力に応じ、学校側が職種を決める。不満をいう者はなかった。世の中そういうものなのだ。
だが、ネット世界は別だった。
「昨日ウィルステロに遭っちゃってさ。もう少しで英雄になれたのに隔離病棟送りだよ」小柄な悪友Aは言った。「スペアの体、起動したのはいいんだけど、ナンパされまくって、うぜーし」
言いつつも、顔はうっとりしている。スペアのときの彼は女であり、グラビアアイドルのようなムッチリボディーで、ナルシストだった。美女になりたくない男なんかいない、ある日彼はそう漏らしたのだが、カツシはピンとこなかった。
太った方のBは言った。
「俺は廃墟調査に行ってきた。途中で濃塩酸のプールに落ちちゃってさ、危うくドライスーツが溶けるところだったけど、ギリで脱出してやったぜ」
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豊島(とよじま)カツシは、薄暗い部屋の隅で机に向かっていた。
ヴァーチャルスクリーンのほのかな明かり。
少年は黒縁のメガネを外し、小さな布でレンズをふくと言った。
「だからさ、そういうことはもうちょっと先でもいいだろ?」
画面の中の女は、まっすぐな黒髪をいじりながらつぶやいた。
『前から言おうと思ってたけど、似合わないよ、それ』
「うるさいなぁ」
カツシはメガネをかけ直した。度は入っていない。
『ごめんね。もう耐えられないの』
少女は画面の端に人差し指をやった。ログアウトするつもりだ。
「きっと見つかるって!」
指が止まった。瞳がこちらを向く。
『いつ? 今日? 明日? それとも百年後?』
「それは……」
カツシは視線を落とす。別の半透明ウィンドウに映ったカレンダーが目に入った。物心ついたときから同じカレンダー。一月一日は必ず月曜日で、五月二十日は必ず日曜日だった。なぜだろう……。
「ウッ!」
頭を抱える。
少女はため息をついた。
『また〈常識〉のこと考えちゃったのね?』
毎朝九時に高校のアイコンをタッチして授業を受ける。飲料水は世界をとりまく環状水道からパイプを通じて供給され、六月と十二月は節電五十パーセント、各層の床から天井までの高さは二一三メートル五〇、気温計は二十二℃を常にさし、夕方六時になると天井の光が少しずつ暗くなっていく。主食は配給制で、人や動物を故意に殺してはならず、何人もKY区域に入ってはいけなかった。
「とにかく、死ぬのだけはもうちょっと待ってくれ」
『どうしようかな』
板橋(いたばし)ミナト……この色白の女子高生とは、知り合って以来、いつもこんなやり取りだった。学年は同じだが学校は別で、カツシは第四層、ミナトは第十五層の住民だった。出会ったきっかけは、お互い等身大の化身(アバター)で、電脳仮想世界をうろうろしているときだった。相手が望んだため、次の週からは顔をさらしてTV通話するようになった。
ただ虚しい……それがミナトの口癖だった。彼女には趣味はおろか、好きな事というものがまるでなく、ほとんど習慣だけで生きていた。電脳世界も単なる逃避にすぎず、甘い菓子の話で誘っても無駄だった。聞けば成績は常に学年三位以内だそうだが、勉強が好きなわけでもない。一方で、死に方や死に場所にかけてはやたら詳しく、オタクと言えるほどだった。
今日はどう説得しようか。そう悩んでいると、ミナトが先に口を開いた。
『どうして死んではいけないの?』
「そ、それは……」
『それは?』
ネタはもう尽きていた。カツシは顔を横に向けた。
「常識だからさ」
『ヘンなの』
ミナトは口もとを緩める。
『守らない人、いっぱいいるじゃない』
なんだか急に腹が立ってきた。
「じゃあ聞くけど、そんなに死にたいなら、なんで今すぐ実行しないの?」
『……』
少女の顔が曇った。
しまった。カツシは胃のあたりがジリと熱くなった。
『わかった。そうする』
ミナトは机の引き出しを開けた。
「だーっ! 今のなし! あ、いや、だめな理由、一つあった!」
『……』
細った手は、それを無視して目的のものを探っている。
「その……いなくなったら俺が困る。困るっていうか、ええと、何ていうかな……」
ミナトの首筋のあたりがキラリと光った。
カツシは身を乗りだす。
「話聞けって!」
『聞いてるよ』
少女は長い髪を銀色の櫛でとかしはじめた。
「ブラシだろ、フツー……」
少年はどっとイスにもたれた。
『カツシ君が困ることは、あまりしたくないな』
小さな笑顔を残して、画面は虚空に消えた。
あまり……か。
カツシは席を立つと、窓のカーテンを開けた。
どこまでも続く灰色の壁に、この窓と寸分違わぬ正方形が縦横無数に並んでいる。中央広場へ行けば、同じ規格の建造物が放射状に等間隔で並んでいるのがわかる。いつだったか、別の層へ出かけたときも、自分が生まれ育った『四層』とまったく同じ造りをしていた。
「なんでだろう……ッツ!?」
あまりの痛さに頭を抱えた。
消し忘れた小ウィンドウ。電子カレンダーがふと目に入った。明日は月に一度の登校日だ。
2
カツシが所属する高校は、自宅と同じ建物の中にあった。といっても、遅刻ギリギリまで寝ていられるような近所ではない。第七十七棟と七十八棟の間の通りを、中央広場と反対方向へ歩くこと二キロ先にあった。
居住部とほとんど同じ造りの、こぢんまりとした玄関を抜け、エレベーターで五十六階へ。ドアが開くともうそこは高校の廊下だった。今日は二年生の登校日、見知った顔が行き来する。お決まりの挨拶は『リアひさ』(リアルでは久しぶり)だ。
廊下の突き当たりにある一組の教室。
ドアを開けると『リアル』な冷やかしが待っていた。
「よう変態」「死神ちゃんは元気かい?」
中学の頃からの腐れ縁どもが、別々の席で笑っている。
「おまえらなんかに話さなきゃよかったよ」
カツシはどかっと自分の席についた。
前の席を囲んで女三人が盛り上がっている。座っていた一人が振りむきざまに言った。
「で、この頃はどんなプレイしてるの?」
「うるせー。俺はMじゃねー」
「ぜったいMだよ。ドM。なんで頭痛起こすような自滅ばっかすんのよ」
「しらねー。考えるとそうなるんだよ」
「バカねぇ。常識があるおかげで、余計なこと考えなくてすむんじゃない」
「……」
悪友が死神よばわりする板橋ミナト、彼女にも画面の向こうから同じことを言われた。
やがて、担任の若い女教師がやってきて雑談をはじめた。授業の話はない。そういったことは自宅でリラックスして聞くのが校則以前の常識であり、月に一回の集まりは顔見せのプチ同窓会のようなもの、というのも常識だった。
登校日の出席率はほぼ一〇〇パーセントだ。
面倒だな。っていうか誰もサボりたいって思わないんだろうか? カツシは一度じっくり考えたことがあったが、頭痛と嘔吐にやられた。以来、校則には従うことにしている。
生活指導の話でしめくくると、女教師は満足そうに教室を出ていった。思春期の男どもが数人、気配もなく教室から消えた。カツシは好みではなかった。もっぱら脳みそは、ネットゲームや仮想現実空間『トゥルーライフ』のことでいっぱいだった。
高校を卒業すれば、それぞれの能力に応じ、学校側が職種を決める。不満をいう者はなかった。世の中そういうものなのだ。
だが、ネット世界は別だった。
「昨日ウィルステロに遭っちゃってさ。もう少しで英雄になれたのに隔離病棟送りだよ」小柄な悪友Aは言った。「スペアの体、起動したのはいいんだけど、ナンパされまくって、うぜーし」
言いつつも、顔はうっとりしている。スペアのときの彼は女であり、グラビアアイドルのようなムッチリボディーで、ナルシストだった。美女になりたくない男なんかいない、ある日彼はそう漏らしたのだが、カツシはピンとこなかった。
太った方のBは言った。
「俺は廃墟調査に行ってきた。途中で濃塩酸のプールに落ちちゃってさ、危うくドライスーツが溶けるところだったけど、ギリで脱出してやったぜ」
作品名:A Groundless Sense(1) 作家名:あずまや