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亡き王女のためのパヴァーヌ  完結

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第一章 白い花



「おじいさん。ありがとう。わがまま言ってごめんね」
「雪乃! もう何も言わん……。お前の思い通りにしろ」
 病院の屋上に若い女と老人が立っている。若い女の体が光り始める。胸の辺りから眩い光が抜け出し、足下のコンクリートの下に消えて行く。しばらしくして、足下で何かがぱっと光ったようだった。
「これで、由紀はもう大丈夫なの?」
「ああ、大丈夫だ」
 女は空を見上げる。
「私、もう行ったほうがいいね。私のせいで大変なことになってしまうんだよね」
 落胆した老人の声が続く。
「ああ、そうだ。それしかないんだ……」
「おじいさん。私、悔いはないよ。でも、おじいさんの跡継げなくて、ごめんね」
「ああ、いい。もう、気にするな」
 女の体が、さらに光り初め正視出来ないほどの眩さになった。
「おじいさん。ありがとう。それから、由紀! 大好きだったよ……」
 女の体は繭のような形の発光体になると、すざまじい速さで空へと駆け上った。そして、遙か上空でふわっと広がり、暖かく柔らかな光となった。まるで、数もしれない蛍が舞い飛ぶように分散し、広がり消えて行った。


 その半年後、フランスのシャモニー・モンブラン冬期オリンピック。冬期オリンピックの最初の開催地がこの地であり、1924年のことだったが、今回はこの地での二度目の開催だった。女子フィギュアスケート決勝が終わってから一週間後の夜、内藤由紀は病院の個室に居た。窓の外は白い雪が降り続いている。由紀はベットに横たわり、体中に管や針やセンサーが取り付けられ、昏睡状態にある。会場で倒れたままもう二度と意識は戻らなかった。傍らにキャビネットの上には、ケースに入った金メダルが置かれている。オリンピックの女子フィギュアシングルで由紀に与えられたものだ。何を見るともなく点けてあったテレビが、ニュースを放送し続けてている。フランス語で何かまくし立てている。画面には、由紀が滑っている演技のダイジェストが放送されている。由紀の母はリモコンに手を伸ばすと、うっとおしげにテレビを切った。
「それで、お医者さんはどう言ってるんですか?」
 前川綾乃が問いかける。前川は由紀のスケートの先輩だ。今は引退してプロになっているが、由紀は姉のように慕っていた。
「それが、後一月くらいの命だろうと言ってました。意識はもう戻らないらしいです」
 前川は深いため息をつく。由紀の母が恐る恐る切り出す。
「前川さん。日本から私の妹を呼び寄せることにしましたので、どうかお仕事もお有りでしょうから、日本にお帰りください……」
 前川が口を開こうとするのを、由紀の母が遮って続ける。
「この子はもう、意識を取り戻しません。日本を出るとき、この子、自分の長かった髪を切って、私に渡したんですよ。『体はフランスで消えるかもしれないから、消える前にこれを』って。この子がいったい、何言ってるのかわかりませんでしたよ。きっと、痛み止めの麻薬で少し頭混乱してたんですかねぇ、この子。ああ、私、何つまんないこと言ってるんでしょうねぇ。ごめんなさい。そう、エンバーミングて言うんですか、今の最新の防腐処理して、この子の体はきれいなままで持ち帰りますから……。だから日本で葬儀を出しますから、その時はどうぞ、最後のお別れに来てやってください……」
 堰を切ったように由紀の母は号泣し始める。堪らず、前川もその手を握り、嗚咽する。

 前川が病院を出ると、病院の玄関付近の積もった雪の上に、幾つものガラスのコップに入った蝋燭が灯っている。この冬のさなか、温室栽培だろう高そうな花束も置かれている。この大会の由紀の演技を見てファンになった人々が時折、置いて行ってくれるのだ。いましも、一人の中年の女性が一個の蝋燭を置き、十字を切り、祈り始めた。すっかり動揺していたからだろうか、前川は我知らず、ヒステリックな叫びを上げてしまった。
「やめてよ! あの子まだ生きてるのよぉ……」
 その女性はびっくりしたように、前川を見つめる。前川は、婦人が決して死を悼みに来てくれているわけではなく、全快を祈りに来てくれているのだと思いあたり、深く恥じて謝罪した。
「ああ、ごめんなさい。マダム、パルドーン。パルドーン。許してください」
 前川はその場を足早に立ち去る。歩きながら、由紀の母が病院で言っていたことを思い出す。
『この子ね。痛み止めの麻薬で、すっかりいい気分になってて、とてもいい夢見てるのか、時々微笑むんですよ』
 前川は涙を拭う。
「由紀ちゃん。あなた、今、どんな楽しい夢見てるんだろうねぇ……」

 空は少し曇り空だった。大気は冷たく爽やかだった。場所はまるで、ロシア東部のツンドラの夏期の湿地帯のようだ。辺り一面、白い小さな粒のような花が咲き乱れている。由紀は何の花かわからなかった。冬の初めに微かに振った雪、その白い雪を地面や草の上にまばらに散らしたような風情の、そんな美しい野原だった。
 雪乃が居る。由紀は駆けて行く。雪乃は突然、白い花の中に伏せてしまい見えなくなる。しかし、いくら隠れたってわかるのだ。由紀には、雪乃のいる場所が透き通ったターコイズの青い点として感じられる。由紀の視界に見えるその青い点を追っていくと、雪乃は必ず居る。
「雪乃! ほら、見つけた!」
 今度は由紀が隠れる。でも、直に見つかってしまう。雪乃は由紀のいる場所を暖かいマゼンタの赤い点と感じる。だから、視界に浮かぶその赤い点を追ってゆけば、由紀は必ず居る。
 花の中に伏せていた由紀は、青い点が急速に近づいてくるのを感じる。雪乃が目の前に立っている。
「見つかったぁ!」
 立ち上がった由紀の髪を雪乃が撫でる。ふと、由紀は気付く。
「あれ、何時の間に伸びたんだろ。おかしいなぁ。去年の暮れの全日本選手権の前に短く切ったのに……」
 雪乃のはいつも、ショートヘアーにしている。その雪乃のように、由紀は全日本選手権フィギュアスケート大会の前に、ショートヘアにした。短く切ったはずの髪がまた、背中まで伸びている。短く切ったのは勘違いだったのだろうか。それとも、髪がすっかり伸びきるような長い時間ここに居ただろうか。昨日来たようにも思える。でも、ずっとずっと、遙かな前から居たようにも思える。
 ここでは、雪乃は少しもしゃべらない。由紀ばっかりが口をきいている。
「雪乃! 待って!」
 次に逃げて隠れようとしていた雪乃が振り返る。
「あんた、いつも手紙に書いてくれてたよね。『ユキノはユキが好き』って」
 雪乃がこくっと肯く。
「それから、『ユキノはユキを見捨てない』って」
 雪乃はまた肯く。
「それから、『ユキノはユキを見守っている』って」
 雪乃は深く肯く。由紀はいっそう大きな声を張り上げる。
「だからねえ。
 『ユキはユキノが好き』
 『ユキはユキノを見捨てない』
 『ユキはユキノを見守っている』」 
 雪乃の顔に格別の笑みが広がってゆく。