その腕に口づけを
金色のイルミネーションが職場の隣にある公園を彩る季節。
街中も緑や赤で彩られているのをそっと眺めながら、今年もあと一週間ほどで終わりなんだと菱沢透は小さく息をついた。
一年で一番最後のイベントでもあるクリスマス時期になると、もの寂しい気持ちも少しあるけれど、こうやって暖かい雰囲気に包まれた店にくると心がほっとする。
忙しくても最低一ヶ月に一度は足を向けるダイニング・バー「ドルチェ・ヴィータ」は、仕事や日常の疲れを癒してくれる場所でもある。
シックな雰囲気の中いつもはピアノアレンジをされたクラシックが流れる店内だが、今日は耳に馴染んでいる定番のクリスマスソングをピアノアレンジしたものが流れていて、どことなく浮き足立った気持ちにさせてくれていた。
カウンタにも、テーブルにも小さなツリーとミニキャンドルが置かれていて、イベントを一層彩らせている。
淡い灯りを眺めていると、自然と眼鏡の奥の瞳が綻んでいく。
自分にとって縁のないイベントだとしても、この雰囲気は嫌いじゃない。
「すいません、なんだかバタバタしてしまって」
「盛況なのは良い事だよ。それより、オーダーは落ち着いた?」
「はい。どうにかピークは過ぎたみたいです」
涼やかな笑みを浮かべ少しだけ乱れた前髪を直した後、鷺沼はそっとナッツの入った小皿を差し出す。ここに来るのは何かを話したい時なのだと、短くない付き合いで察してくれているらしい。これは、彼からのちょっとしたお詫びだ。
「それから、これもおまけで」
小皿の隣に置かれたのは、オレンジ色のカクテル。
「え、でも。そこまでしてもらうのは…」
過剰なのではないだろうかというサービスに透が慌てた声を出せば、鷺沼は小さく頭を振った。
「今日はクリスマスで、特別な日ですよ。だから、これは私から菱沢さんへのプレゼントです」
柔和な物腰。鷺沼は『特別』という単語を僅かに強調し、透はその意味にすぐ気づいてブロンクスに視線を向けた。
(そうか、もう三年なんだ)
この店がオープンしてちょうど三年目。そして、鷺沼と透が出会った日でもある。あの時は今日よりももっと冷え込んでいて、帰り道に雪が降っていたのを思い出した。
透は一口グラスに口をつけ、柑橘系の酸味と酒の甘さにほろりと口元をゆるませる。
ようやく仕事にも慣れ、初めて企画した催しが無事ひと段落ついた日で、久しぶりに定時にあがれたのでたまには一駅分歩いて帰ろうという気になった透は、ついでとばかりに普段歩かない場所を散策してみる事にした。
恋人同士の組み合わせが多いのは、イブの日だから。街中のきらびやかなイルミネーションと見慣れない風景に足取りも心なしか軽くなっていく。
「どこか嬉しそうな表情だったのを覚えてますよ」
鷺沼の声が透を現在に引き戻す。
「三年も前なのに?」
「ええ。菱沢さんはオープン初日のお客様ですからね」
微笑みが深くなったのに、相手もあの日を思い出していたのだと読み取る。
「それからもう一人……」
涼やかなベルの音が響き、そこで一旦言葉が途切れた。
「噂をすれば、なんとやらですね」
含んだ笑みの意味に気づき、透は真っ直ぐにこちらに歩いてくる人物にちらりと目を向けた。何人か気軽に声を掛けられているいる姿に、相変わらず人気があるんだと眺めていれば、人懐っこい笑顔を浮かべられる。
冬でも夏の余韻が残っている浅黒い肌。成人して数年経ついうのに、釣り目がちの眦を下げて微笑むと、どことなく少年ぽさを残したあどけない表情へと変化する辺りに、透の心が和む。出会った時より随分成長して、身長もあっさり越されてまったし、あの笑みを仕舞ってしまえば精悍さが滲むのも知っている。
自分とは正反対だから目が惹かれるのかもしれない、なんてぼんやりと考えながら、透は癖のある栗色の前髪を掻きあげた。
モデルと間違われるくらいの容姿は、周りの視線を一手に集めている。
「なんか今日一段と寒くない? 俺、手の感覚があんまりないんだけど」
透の隣に当たり前に座ってくるのは、この店で出会った大学生の水守皓樹だ。あの日、皓樹は鷺沼に開店祝いの花を届けにきていて、たまたまその花の種類が気に入っている蘭だったので、透から話しかけたのが始まりだった。
あれから、鷺沼とは昔からの知り合いだと知り、三人で喋ったのを思い出す。
「ジャケットだけだからだよ。せめてマフラーとか手袋とかして防寒対策をするべきだね」
ジーンズにざっくりとしたデザインシャツ。それにライダースジャケットというのは、この時期だとしたら少し寒いんじゃないだろうか。
「手袋はしてもいいけど、マフラーは嫌だ。なんとなく首の周りがチクチクして気持ち悪いし。それだったら寒いの我慢している方がマシだよ」
片手で首をさすりながら、皓樹が眉を寄せる。
「寒いのは、平気なんだっけ」
「いや、暑い方が平気かも。多少暑くても我慢できるし、エアコンとかつけなくても大抵過ごせたりするかな」
なのに、コートじゃなくてジャケットという所が皓樹らしいといえばらしい。動きやすいのが一番なので、機能性を重視はしていない所が、どことなく大雑把な性格を表していた。
「じゃあ、少しでも温まっていってね。はい、これ」
耐熱性のグラスに注がれているのは、トムアンドジェリーという赤が鮮やかなホットカクテル。外国では一般的なクリスマスカクテルの一つとされていて、相手は受け取ったカップのぬくもりで冷えた指先を温めながら、くすりと小さく笑った。
「昌己さんのお酒って美味しいから好き。しかも、ちゃんと相手の事考えて作ってるだろ。透さんのカクテルも、あの日と同じだし」
「さすが鋭いね」
鷺沼が、よく気づきましたと言わんばかりに柔和に微笑む。
「そりゃ、あの日の数少ないお客様だからだよ。でも気づいたら三年なんてあっという間だよな」
見知らない他人同士が、知人や友人になるには十分な年月だ。改まって会うという約束はしていなくても、ここに来れば皓樹と顔を合わせる機会も多くなり、今では世間体ではなくプライベートの話をするのが当たり前になっていた。
ホールスタッフから声がかかり、鷺沼は透達に軽く会釈をすると仕事に戻っていく。
「相変わらず片思い続行中?」
グラスの淵を軽く指先で撫でながら、透は皓樹に問いかけた。客観的に見ても皓樹はもてる部類に入るだろう。なのに、毎年こういったイベントは一人でいるのが不思議で問いかけた事がある。
その答えが片思い。それも、報われることのないものだからと告げられ、透は自分も同じだと返した事があった。
あれはちょうど出会って一年目だっただろうか。
「ああ、相変わらず。振り向いて貰えないならいっそ吹っ切りたいのに、それも出来ないなんて情けないよな」
「いいんじゃないかな。想うだけは自由だしね」
「透さんも、俺と同じなんだ」
困った様な顔。かといって傷を舐めあうというわけではなく、同情でもない。ただ、ままならないのが恋愛なんだと、皓樹も透も十分知っているだけだ。
「今はね。でも、ちょっと焦り始めたかもしれない」
「透さん?」