しゃぼん拳
ただ、しゃぼんの世界にいる彼女を見て、僕のみぞおちの下あたりから、何か熱いものが昇り、心に触れた。
僕は、注意を彼女に残したまま、自分の場所に戻り、ベンチに座り、ミネラルウォーターを飲んで、また彼女を眺めた。
そして、それは毎日の締めくくりになった。
一週間が経ち、彼女も週に5回、井の頭公園の空にしゃぼん玉を放っていることを知った。
最初は、僕は自分の聖域(と自分で名付けていた)に、見知った人がいることを非常に居心地悪く、迷惑に感じていた。そして3日目辺りから、彼女が自分と同じに、今日もベンチに着くことを、そわそわ待っていることに気づいた。練習量は減っていった・・・。
そして、夜の日課のない土日に、部屋で「これは、運命の出会いではなかろうか」と考え始めていた。みなに見せる彼女の多彩な表情と、夜の彼女の一つの表情が、なぜかリバーシブルのコースターのように、僕の心の底でくるくると回っていた。
職場恋愛・・・。
僕は、マンガとドラマでしかお目にかかったことのない状況に、高いハードルを感じていた。関係を隠して付き合うのだろうか。なぜ後ろめたい想いをしなければならないんだ、と憤慨しながら、そんな状況にどうしようもなく、ときめいた。そして妄想の果てには、振られたらどうしよう、と家の枕に連打した。
月曜。
僕は彼女、増山さんの姿を眺めた。
細い首にシルバーのネックレスがかかっていて、ペンダントトップは、シャツの中に隠れている。
僕はそのトップの正体を知っている。
お皿のような、平たい金属製の器だ。中にはしゃぼん液が入っている。トップをくるくる回すと、2つに分かれる。まずは器。そして、ネックレスとつながっている、しゃぼんを吹く柄。
「みんな今日もよろしくね」
増山さんは今日も頑張って、みんなにレジュメを配る。毎朝の作戦会議だ。
チームメイトはみなそれぞれの状態だ。眠気顔。しかめ顔。その場しのぎの愛想顔。
増山さんだけが、仕事と向かい、その状況と課題をみなに示そうとしている。
プライベートや懸念や職場の人間関係と向き合う皆を、課題クリアへの道程に誘おうと、皆の心情と向き合っている。だから僕は格好いい上司に付き従う。
「はい!」元気よく返事をする。
「平岩くんは、いつも元気だね」
増山さんが笑顔を返してくれる。助かった、ありがとう。そんなメッセージがこめられているようだ。はい、先輩! と僕は心の中で返事をする。勢い余って書類に目を近づけ過ぎる。
残念ながら、僕にはそのくらいのことしかできない・・・。僕は、まだまだ、なにはともあれ経験不足なのだ。
だから、また、夜の井の頭公園で拳を振るう。
視界の端に浮かぶ、しゃぼん玉の影。
拳と蹴り、攻撃の隙間に、彼女の面影と気配がある。目をつむっていても、彼女の存在の核を感じることができる。近くにも闘っている人がいる。好きな人が、大切な時間を過ごす僕の近くで、大切な時間を過ごしている。
僕は、彼女の立っている世界を想う。彼女は、しゃぼん玉に、いまの自分の心情を映しているのではないだろうか。夜にしか姿を表さない、自分の一面があることを、僕も知っている。
もしそうならば、と僕は憧れる。
もしそうならば。彼女の目の前のしゃぼん玉に映る景色が、彼女を絶望させたとき。しゃぼんが真っ黒になり、希望を行き止まらせたとき。世界の不条理が彼女の涙腺を意地悪に引っ張ったとき。僕はできる限りはやく、彼女の前に降り立とうと思う。そして、すべてのしゃぼんを、目にもとまらぬ早さで、打ち割ってやろう、そう思う。パパパパ。
「好きです。付き合ってください」
そして告白するのだ。
そうすれば、彼女は、びっくりするだろう。とりあえずびっくりする。嬉しくなくたって、目を丸くするはずだ。その間に、ちょっと前まで目の前を埋めていた絶望なんて、真っ黒なしゃぼんなんて、どっか飛んでいっているか、割れてしまっているはずだ。彼女がいつもの彼女に戻る。尊い彼女に。それでいい。それだけでも、僕が告白した甲斐にはなるだろう。
ふっ
息が短く吐き出される。僕は、拳を振るう。闇の空白に捉えた的に対して。