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しゃぼん拳

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彼女は、仕事の帰りに必ず、しゃぼん玉を吹いた。
 渋谷から井の頭線に乗り込み、最寄り駅の永福町を通り過ぎて、井の頭公園駅で下車する。駅と同名の、緑が深く、水場の多さから湿っぽい公園の一角で、ベンチに腰を下し、目の前をしゃぼん玉で埋めている。
 彼女、増山さんはゴムまりのような人だ。感情表現が豊か。一つ一つのアクションに対して、丁寧なリアクションをする。よくはじき、よくはね、その度に、小さな汚れを全身に、おかまいなしにくっつける。どういうからくりか、次の日には新品同様に戻ってる。僕の印象でプレゼンテーションすると、そんな人だ。加えていうなら、青色。群青色のゴムまり。
 説明をしておいて無責任になってしまうけれど、僕と彼女は、親しいわけではない。ただの職場の同僚だ。あっちが3年先輩、チームリーダー。こっちは3年後輩、チームの新任、まだ3ヶ月。
 直属の上司。その一言が客観的に、説明として的を射ている。
 彼女の隠れた(少なくとも、僕は知らなかった)日課を知ったのは、ほんの1ヶ月前だ。
 日めくりカレンダーが8月のいつかを示したある日のこと、彼女と僕は、ほぼ同じ時間に退勤した。18時。いつもの挨拶をして、別れた。同じ列車の同じ車両に乗ったことに気づいたのは僕だけだった。声を掛けることもなく、僕は両耳で音楽を聴き、彼女は小説の文庫を読んだ。
 電車が永福町を過ぎて、僕は「あれ」と思った。彼女は永福町だったはずだ。僕と彼女の間に交わされる、あまりにも少ないトピックの1つが「井の頭線の古書店について」だったからだ。
 何か予定があるのだろうか。月曜日の夜に足を運ぶ予定について、僕は想像を巡らせた。デート、接待、買い物、通い妻・・・。
 あまり見る機会のない、口を結んだ、一点を注視する彼女の表情に意識を奪われ、少し前のめりになったうなじに目がいったところで、僕は、考えるのを止めた。
 仕事帰りに、ゆっくり家で休めない社会人の現実を学んだつもりになって、目を閉じた。
 電車のアナウンスが井の頭公園駅がまもなくであることを告げる。席を立ち、ドアーの前に立つ。僕の最寄り駅もとうに過ぎている。そういえば僕も寄り道をしようとしているのだ。しかしそれは、まがうことない「一人」の時間だ。誰かと会う、という誤摩化しも、嘘も、浅薄さもない。自分と自分の世界が向き合う、混じりっけのない時間。僕は、目的の場所に近づくと少し傲慢に、意固地になるようだ。
 ドアーのガラス越しに迎える景色。最寄り駅に着いたときとは異なる種類の、肩から余分な力の抜ける懐かしさがある。
 ホームに降りると、彼女の背中が見えて、僕はびっくりした。
 嫌な偶然。
 とだけ思い、僕は彼女が見えなくなってから、改札口を出て、公園に入った。遊具の広場から、円形の池を渡す橋を超えて、コンクリートのアーチが空を隠す一角のベンチに座り、リュックを降ろした。
 仕事の余韻が公園の闇に散ってから、僕は近くの4本の木の中心に立つ。「型」を始める。
 両足を肩幅大に開き、中腰になる。力を抜いた両手を軽く、前方に出す。これが“起式“。
 半眼になる。世界の姿が薄まる。
 腹式呼吸。気持ちが穏やかになる。
 意識を、両足で捉えた地面に沈めていく。
 全身の間接をゆるめる。下半身に、折り畳まれた発射台をイメージする。息を細く吐き、長く吸い込む。
 意識と体重を乗せた片足を思い切り伸ばす。もう片足でせき止める。下半身の、エネルギーが発散される力の流れに乗って、拳を思い切り打ち出す。息が短く吐き出される音を耳にする。
 暗闇の空白に打ち出される、僕の意志。
 それは殺意だ。
 誰々に対して、ではなく、人と人の間に生まれるもの。いつまにか社会を支える骨の1本になっているもの。「不条理」に対する殺意だ。
 僕は、10年間、道場に通っている。ランドセルを背負った頃から、仕事用の手提げ鞄を手にした今日まで。いまでは1年目社会人を努めながら、小学生に「小林流古武術」を教えている身分だ。
 体の、力の流れは、とても上手にまとめ、動かすことができるし、実際「技」は弟子一だと、師匠も言ってくれる。
 でも生涯戦績は、公式非公式合わせて無勝35敗。
 大学に入学してから気づいた。どうやら、僕は、人を殴ることが苦手らしい。試合の相手に殺意が湧かない。最初の最後に気持ちがこもる動作は、試合終了時のお辞儀だ。
 だって、敵なんていない。
 僕は型を続ける。よりよどみなく。より力をぬいて。
 怪人。魔人。悪人。
 そんな分かりやすい敵なんていやしない。
 苛立が湧くのは、いつだって、人の善意の行き違いにだった。誤解。負の環境。八つ当たりの連鎖。いつだって、その人の前向きな気持ちや些細な思いやりは、時間と義務の刺で脅しをかけてくる「仕事」の陰に隠れてしまった。
 目の前の不条理に対して、何もできない自分。分かっているのは、出来事の責任を、実際には、誰か一人に押し付けられないこと。不条理を打破する方法も、そもそも原因の姿も捉えることができない。無力感は、働き始めてから、より大きくなった。夜の井の頭公園で一人拳を振るう時間は増え、たまたまの息抜きは習慣になり、日課になった。いまでは週に5回、井の頭公園で一人滑稽に敵の姿のない闘いを繰り広げている。っている。ちなみに土日は休息。人恋しさを持て余す時間だ。
 外聞はだんだん気にならなくなった。
 クリーニングまでして整えるシャツが、汗でびしょびしょになるのが、むしろ心地良い。
 始式と同じ姿勢、終式をつくる。
 お腹から広く息を吐き、心から、闘いに向かう気持ちを、暗闇の空白に吐き切る。
 視界の端に、しゃぼん玉が浮かんでいる。
 目を遣ると、まずその数と大きさに驚いた。 
 しゃぼん玉の発生地点と思われるベンチは、もう、しゃぼん玉だらけだった。次に、しゃぼん玉を吹いている人の顔に驚いた。
 増山さん!
 僕は反射的に、四つん這いで、地面に伏せた。
 さすがに恥ずかしくて、すぐに立ち上がった・・・。
 そして、彼女が僕に気づく可能性はとても低いことに気づいた。
 まず彼女は両耳にイヤフォンをしていた。次に、彼女の一部といっても差し支えない眼鏡が外されていた。群青色の長方形の縁眼鏡。ひどい近眼だったはずだ・・・。
 なぜ眼鏡を外しているんだろう。僕は、彼女の死角になる、木の陰に上手に移動し、彼女の全体像を眺めた。
 彼女は慎重そうにしゃぼん玉を吹き、ストローの先でふくらむしゃぼん玉を熱心に見つめていた。
 僕が知る彼女は、表情豊かな人だった。よく笑い、懸念には眉を潜め、会社の痛手に「あちゃー」と声を出した。彼女の表情を反応を見れば、職場でおこった出来事が、チームにとって、どんな影響を与えているのか、ひとまず理解することができた。
 そんな当たり前だったことに注意がいってしまうくらい、彼女は顔の筋肉に力を巡らすことを放棄していた。
 彼女はストローから口を離し、両膝に両肘を置いて、しゃぼん玉が上空を埋める景色を眺めた。
 ちっとも動かなかった。
 彼女は、その景色に、一体なにを見ているんだろう。分からない。
作品名:しゃぼん拳 作家名:takeoka