あぁ、麗しの君
小夏の母親は夏という名だった。
「夏の子は小夏よ。」
と言って、夏は快活に笑った。
夏は小夏と対照的になかなか男らしい女だった。
黒く長い髪をポニーテールにして後ろにながし、青の半袖のポロシャツにスキニーパンツをはいている。
ハキハキとした話かたは威勢がよく、さきほどの告白騒動も加わって四谷はすっかり恐縮しきっていた。
四谷は一階の居間に通され、(四谷が目覚めたのは二階の角部屋であった。)夏手作りのクッキーを出された。
四谷は緊張のあまり焼き菓子がマドレーヌでないことにがっかりしている暇もない。
夏の隣に座る小夏はまぐまぐとクッキーを食べ続け夏にぴしりとたしなめられていた。
「こら小夏ッ。これはお客様にだしたのよっ。」
「いえいえっどうぞお構い無くッ」
小夏はほら、かーくんもこう言ってるよ、と再びクッキーに手を伸ばした。
夏はやれやれと溜め息をつく。
四谷は遠慮深げにゆっくりと質問をした。
「あの…小夏ちゃん、て、もしかして…。」
夏は四谷の台詞を途中で遮った。
「あなた、小夏のために殴られてくれたそうね。」
四谷は突拍子も無い発言に少し戸惑った。
「はぁ、一応…。」
夏はにっこりと、微笑んだ。
少し小夏に似ている。
「あなた、よつや君でしたっけ?字はどう書くのかしら。」
「あ、四つの谷です。四ッ谷怪談の。」
「OK、四谷怪談君。…四谷君は小夏が守れるかしら?…正確には見張れるかしら?」
夏はよくわからないことを聞く。
四谷は自分が小夏にふさわしいかどうか試されているのだと思った。
そのため大きく頷いた。
「はい!死んでも彼女を守ります!…でも死にたくないので二人で生き延びます!」
それを聞いた夏は目を丸くした。
四谷はしまった変なことを言ってしまったと滝の様に汗を流した。
夏はしばらくしてからハッハッハッと男らしく笑った。
「それは一番頼もしいわね。…そう、あなたならまかせられるわ。ちょうど学校も同じようだし。」
夏は細い指で四谷の学生服を指差した。
四谷はぽかんと夏を見返す。
小夏は相変わらず菓子を食べていた。
「…このこの秘密、知りたい?」
夏がじっと四谷を見つめた。
四谷はその真面目な視線にどぎまぎした後、ゆっくりと頷いた。
夏はまんぞくげに口を開く。
「…小夏はね、8歳からの記憶が無いの。」
「…は?」
四谷は文字通り口をぽかんと開けた。
(…記憶が、ない…?)
夏はそんな四谷など気にもせず話を続ける。
「…小夏が18になる少し前の頃だった。ちょうど3ヶ月くらい前かしら?小夏はその日もう10年も仲の良かった親友と海へ行ったの。二人とも寒中水泳が得意で。…百合ちゃんていってね、明るくて本当にいいこだったわ。」
夏は溜め息をついた。
そのニュアンスであまり明るい話では無いことがわかる。
「…その海でね、まず百合ちゃんが溺れたの。足をつってね。…そして小夏が助けに入った。でも結局小夏も一緒に溺れてしまって…もがく小夏の目の前で百合ちゃんは沈んで行った。そして…」
四谷はもう我慢ができなかった。
ぼたぼたと涙を流しながら肩を震わせ呟く。
「…亡くなったんですね。」
「生きてるわよ。」
四谷はがくっと気が抜けた。
夏は泣き虫ね、四谷怪談君と笑いながら話を続けた。
「…それで先に小夏が救いだされて、百合ちゃんも無事だったんだけど…。そこからもうすっぽり記憶が消えちゃったのよ。10年間も。」
四谷はおかしい話だな、と首を捻った。
「…普通そういうのって精神的なダメージからくるものなんじゃないんですか?身体的にだとしても先に助け出された小夏ちゃんが障害が残って百合ちゃんは無事なんて変ですよね。」
そうなのよ、と夏も頷き四谷を指差す。
「幸い精神的な方らしくて、何かをきっかけに記憶は戻るかもしれないって言われたんだけどね。肝心の百合ちゃんはわからないの一点張りで。…結局逃げるようにして引っ越しちゃったのよ。それからはもう3ヶ月も打つ手なし。」
四谷はははぁと頷いた。
だから彼女は3ヶ月前からあの庭に現れたのか。
さすがに8歳児の知能では学校には行けまい。
「それで僕は何をすればよいんですか?」
小夏は眠たそうに目を擦っている。
夏は小夏の頭を撫でながら呟いた。
「…実はね、高校に行かせるつもりなの。この家から一番近い、あなたと同じ高校よ。」
四谷はんなっと叫んだ。
普通ならば不可能だ。
夏は驚く四谷をなだめながら補足した。
「ちゃんと10年間の知能は残っているのよ。ただ、その間に蓄積されていった人付き合いのマナーとか社会のルールとか、そういうものがすっぽり抜けてるのよ。だから今まで諦めてたんだけど…。私が毎日高校に着いてくわけにはいかないし。」
四谷は夏が言わんとしていることがだんだんわかってきた。
これはなかなか大変なことになりそうだ。
「…学年はあなたと同じ2年生からやり直させるつもりよ。…言いたいこと、わかる?」
四谷はあぁと溜め息をついた。
彼はもうすっかり小夏にメロメロだった。
「…守りますよ、どこまでも。」
…ここから四谷夏那の大変な高校生活がスタートしたのである。