雨の匂い
部屋に、生温かい水の匂いが満ちた。
雨に濡れたアスファルト。雨に混じる排気ガス。そして、ガソリンの匂い。
「彼女が来るのか」
誰もいない空間に呼びかける。
いつもと同じく返る答えはない。それでも俺は確信していた。必ず、もうすぐ彼女は来る。
果たして数分後、個室である病室の引き戸がからりと開いた。姿を現した彼女は、こちらを見て微笑む。
「こんにちは。具合どう?」
尋ねる彼女の額からは、昨日まであった包帯が取られている。多少の傷跡はあるに違いないが、前髪に隠れて見えない。
「変わりない。今の状態なら、あと半月ぐらいで退院できるとは言われたけど」
「そう」
よかった、という言葉は続かない。代わりに彼女は小さく息をついた。そして少しの間目を伏せ、再び視線を上げる。
「……まだ、いるのね。どうしてそこにいるの」
問う彼女の視線は、俺には向いていない。彼女が見ているのは俺のすぐ横、先には窓があるだけの、誰もいない空間。
「どうして何も言ってくれないの、ねえ」
顔を歪めて彼女は問いかける。それは俺もぜひとも聞きたいところだった。だが、どう尋ねようと答えが返ることはない。今日までずっとそうだったのだから。
——感じられるのは、雨が降ったあの日、事故現場で感じたのと同じ匂いだけ。
1ヶ月前の、まだ暑かった日の夕方。突然の雨に降られて俺は焦っていた。仕事帰りでバイクに乗っていて、傘は持っていなかったので、早く帰ろうと普段より飛ばしていたのは事実だ。だが制限速度はきちんと守っていた。
そのはずだったのに、直線道路で雨のせいでかタイヤが急に滑った。方向を立て直せないままに対向車線に突っ込んだ時、軽乗用車のライトが真正面に迫った。……衝突した瞬間から後の記憶は、病院で目を覚ました時まで途切れている。
容態が落ち着いてから聞かされたのは、車が俺とぶつかった後に歩道に乗り上げ、電柱に激突したという経過。幸い巻き添えになった人間はいなかったが、車を運転していた若い男性は即死、助手席の妻は奇跡的に軽傷だったという結果。
その妻が「見舞い」に来て初めて、被害者が学生時代の親友夫婦である事実を知った。
以来、窓を閉め切った病室に、あの日の匂いが絶えず漂う。特に強く匂うのは彼女がこの病室へ来る時。扉が開く少し前に必ず、事故の瞬間に戻ったかのように匂いが強まる。
もっとも、どんなにかすかであろうと、この匂いがわからなくなる日は来ないだろう。——俺が殺した親友が、傍にいる証。
「どうしてよ、なんで」
「外に聞こえる、静かに」
次第に声が高くなる彼女を制止する。喉が詰まったように彼女は口を閉ざし、目を限界まで見開いて、俺の横の空間を凝視する。
彼女によれば、そこに奴が、彼女の夫が立っているのだという。彼女を見るといつも微笑み、優しく見つめ返す。終始何も言わず。ただし俺は一度も見たことがなかった。
同じように、俺にははっきり感じられる匂いが、彼女にはわからないらしい。
幻覚だろうが本物の幽霊だろうが、奴がこの病室にいるのは確かで、だからこそ彼女は毎日、ここへやって来る。本心では二度と会いたくないに違いない、俺のところへ。
涙をためた彼女の目が、震える唇が辛い。
「……その、まだ当分、働く当てはないんだろ? 賠償金の件」
「いらないって言ったはずよ。保険金が出るし」
「けど、それじゃ——せめて」
「いくらお金があったって、取り返しはつかないもの」
半ば独り言のようなその言葉に、何も言えなくなった。石を詰め込まれたように胸が重くなる。
沈黙の中、扉の外の物音だけが聞こえる。看護師がかけ合う声、機械音、見舞い客が廊下を歩く足音。
「……明日、また来るから」
あふれそうな涙を抑えて、彼女は言った。俺の方は見ないまま、病室を出ていく。
扉が閉まった瞬間、大きく深呼吸した。空気とともに吸い込んだ匂いが、鼻と肺に充満する。
首を振り向け、彼女が見つめていたあたりの天井から床まで視線を走らせた。やはり、何も見えない。
「どうせなら、彼女の傍に行ってやれよ」
話しかけても当然、何も返ってこない。姿が見えるという彼女でさえ、声を聞いたことはないらしいから。
幻覚にせよ本物にせよ、出るのならなぜ、彼女の傍ではないのか。そうであれば、彼女がここへ来る理由はなくなる。彼女は被害者なのだから——来る必要などないのに。
やはりこれは俺への罰、奴の復讐なのか。
「おまえ、やっぱり気づいてたのか?」
数年前の夏、奴と彼女がまだ結婚する前。
その頃の二人は、理由は詳しく知らないがよく喧嘩していたという。あの日はかなりの言い争いになったとかで、偶然出会った彼女はひどく打ちひしがれていた。愚痴を聞くだけのつもりで飲みに誘って、変に酒が回った勢いでホテルに行き——彼女と寝た。その夜一度限りのことだ。
それからしばらくして二人は婚約し、半年後に結婚した。顔を合わせる機会は何度もあったが、俺も彼女も当然、あの夜のことにはいっさい触れず、素振りにも出さなかった。
難しいことではなかった。少なくとも、彼女への想いも同じようにして隠し続けていた俺にとっては。
……だが、彼女はどうだったろうか。
忘れようとはしただろう。それでも思い出してしまって、罪の意識に苛まれる時があったかもしれない。そんな時の彼女を見たら、奴は何かを察したかもしれない。お人好しではあったけど、決して鈍くはなかったから。
だからこれは、奴なりの復讐だという気がする。一度だけとはいえ裏切った、俺と彼女に対しての。
「忘れるなって言いたいのか。……それとも彼女が、おまえを忘れないのを俺に見せつけるためか」
奴の姿が見える限り、彼女は全ての記憶を鮮明に蘇らせ続けるだろう。忘れることも、薄れさせることもなく。
彼女の心が奴に縛られ続けるのを、否応なく見せつけられる——ふさわしい罰だと思った。親友を裏切り、殺した俺への。
この匂いから解放される日は来ない。その確信に身を斬られる思いを覚えながらも、そうであることを切実に願った。