あなぐらさま
それにつれてだんだんと涼しい風を感じるようになった。目蓋の裏側にどういうわけかある像がくっきりと焼き付いている。直観的に、これがあなぐらさまだと思った。ご神体というよりか何か呪物のような印象を受けた。
この異常な体感の原因に思いを巡らせるとすぐにひっかかってくる言葉がある。パーフェクト・ヒューリーだ。国内では4年前のあなぐらさま事件の時に発見された3人の変死体から検出されたのみで、普通は手に入らない気化性薬物である。
中米のマフィアが激レアアイテムとして超高額取引するという逸品で、欧米の裏貴族たちの間で秘かなブームになっているという。凄まじい昂揚感と快感をもたらすが、依存性がほとんどないというのが大ウケしていると聞いたことがある。
しかし使用濃度を間違えると脳への刺激が強すぎ後遺症が残ることもあるらしかった。
気を取り直した魔詩撫は全気力を振り絞って立ち上がったが、今度は光の鈍器に頭を砕かれるような感覚喰らって完全に昏倒してしまった。
次に魔詩撫が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。
見舞いに来てくれた友人に話しを聞くと8月14日の昼頃県警の捜索隊があなぐらさまの洞窟に査察に来たらしかった。それで魔詩撫は発見されたのだ。
ベッドの傍ではばあちゃんが泣きっ放しだった。今日は8月15日なので丸一日くらい寝込んでいたらしい。
疲れた。
気だるい眠気を感じたものの、魔詩撫はとっさに気がかりなことを思い出した。陵勢はどうしたのだろう。状況を聞いてもばあちゃんは相変わらず泣きっ放しである。
友人も口をつぐんで、話すのを躊躇しているようだった。魔詩撫が強く聞くとようやく友人は話してくれた。
「上がったよ・・沼から・・、遺体で」
魔詩撫はあなぐらさまの洞窟からそう遠くないところにやや大きな沼があるのを知っていた。ぬめりのある真緑の水を湛えた、生臭いあの沼だった。
魔詩撫は言葉がなかった。陵勢は幼稚園の頃からずっと一緒に遊んで来た。いいことも悪いことも一緒にした。喧嘩もしたし、うまいものも食ったし、死ぬほど笑い転げたこともあった。
その陵勢が死んだ。
魔詩撫は顔をもうぐしゃぐしゃにして泣いていた。
ばあちゃんの嗚咽がまるで責めるようにも聞こえ、みぞおちがえぐられるように苦しかった。
魔詩撫が幾分か体調を持ちなおした8月17日には午前から県警の聴取があった。捜索隊の編成・指揮を担当する婦警とその部下が病室にやって来た。
「大罪県警の大友よ。宜しく」
20代後半と思われる黒髪の婦警は艶のある穏やかな声でそう言った。
「助手の吉岡です」と初老の警官も名乗った。ぱっと見、どう考えてもこの初老の警官の方が上司だと思うが、どうも婦警の方が上であるらしい。
吉岡は持てる能力を全てこの婦警の補佐に集中させているようで、一つ一つの動作が洗練されておりまるでどこかの執事のような印象を受けた。
大友という婦警の聴取はそれほど通り一遍のものではなく、言葉の端々に細やかな気遣いが感じられた。
魔詩撫はもともと年上が好みのところもあり、すっかり気を許してしまった。
洞窟探検に乗り出した経緯や道中での出来事、洞窟の中での体験を魔詩撫は出来るだけ思い出して、間違いのないように伝えることを心がけた。
酷く酩酊していたためなのか、洞窟内での記憶がかなり断片的で強い光に包まれたことや目蓋の裏に浮かんだあなぐらさまの残像、頭を殴打されたような衝撃ぐらいしか
思い出せなかった。そういえば後頭部はまだ痛い。
「そうね。頭の後ろに大きな瘤が出来てるみたいだから、倒れた時に実際に怪我をしたみたいね」
あるいは誰かに殴られたか、と大友は思ったが言葉には出さなかった。もし誰かに殴られたのだとしたら、その誰かが裏永陵勢である可能性は否定できない。
後でわかったことだが、魔詩撫を殴打したのはやはり陵勢であるらしかった。
沼から上がった陵勢の遺体の検死結果は、その両腕が激しく岩に打ち付けられてずたずたになっていたことを報告していた。このため、8月14日時点で発見されていた洞窟内壁に無数に散在する
血痕と肉片が陵勢のものだということがはっきりした。
「捜査中の内容だから、あまり詳しく教えられないけど、あの洞窟は夏の暑い日の夜に特別なガスが発生するみたいなの。
あなたも、裏永君もそのガスを吸って中毒になってしまったのよ。今回のことはとても辛いでしょうけど、あまり自分を責めない方がいいわ。
危険なところに足を踏み入れてしまったことは反省すべきだけれど、決してあなただけのせいじゃないわ」
大友は幾つか事件に関係することを教えてくれた。4年前の変死事件と今回の事件は同質のものであること、どちらも例の気化性薬物が絡んでいること。
洞窟の中では真夏日の夜に特定の条件でその気化性薬物が生成されること。その根幹メカニズムが解明されるのも時間の問題であることなどだ。
大友と吉岡が昼過ぎに帰った後、魔詩撫はぐったりと疲れを感じ、そのまま眠りこんでしまった。
数時間眠り、夕方頃に聞き覚えのある曲が遠くから流れてくるのをベッドの中で聞いていた。「家路」だ。
魔詩撫は眠りながらまた泣いた。
「あの話、本当になっちゃったなぁ・・」
布団に包まって涙を拭いながら、魔詩撫は思い出していた。
森の中で浮かれて自分が冗談半分で作り上げた「家路」にまつわる怖い話だ。
夕方に流れる「家路」を聞いても帰らなかった子供は神隠しにあって、もう家には帰れなくなる。
豊穣を祈る人柱として、沼で溶かされて肥料にされる・・。
あんな馬鹿な話しを考え付いた自分が腹立たしく、愚かしかった。
夜、魔詩撫は夢を見た。あの崖の手前の、荒れた原っぱで見上げた疎らな星空。
今、夢の中で魔詩撫は満天の星空を見上げている。
探検の後で更新されるはずだった魔詩撫のブログは、その後しばらく更新されることなく、半年後には彼自身の手で削除されてしまった。
終