春雨 04
毎日が綱渡りをしているような気分だった。
先なんか見えなくて、振り向いたってどこから来たのかは分からない。下を見ても底は見えない。ただ続けるのに精一杯で。周りなんて見る余裕もない。
いつ終わるともしれない緊張感につぶれそうな毎日だった。
――でもその痛みが少しだけ和らいだのは、きっとあの時から。
「ねーちゃん、英和辞典貸して」
突然耳に聞こえてきた声に、私は心臓が跳ね上がる思いがした。
「…あ! じゃあ、そろそろきりますね」
言って思わず通話ボタンを押してしまった。
それと同時に開く部屋のドア。
「…なにしてんの?」
弟があきれたような声になったのは携帯電話を持ったままで部屋に立ちつくす私の姿を見たからだろう。
「あ、いやーちょうどドア開けようかなって思って」
とっさに言い訳をするが、彼はめざとく私の手の携帯を見つける。
「何、電話してたの? あ! もしかして彼氏?」
「違う! 辞書ってこれでいいの? とっとと出て行きなさい!」
私は机の上にあった英和辞典を彼の手に押しつけると、背中を押して部屋の外に追いやった。
よりにもよって、あんなタイミングで入ってくるなんて…。
思わず電話を切ってしまった。さすがに、先輩は怒ってるだろうか?
携帯電話とにらめっこした挙げ句、結局メールで謝ることにした。
『さっきは突然切ってすみませんでした。怒ってます?』
こう入力すると、送信ボタンを押して、メールを送った。
そこでどっと疲れが押し寄せてきた私は、ベットへ大の字に倒れ込んだ。
長電話をしたのは久しぶりだ。
片桐先輩とは、つきあい始めた時に何度か電話した。けれどあの人は電話が苦手だったから、あまり長電話をしたことがなかったっけ。
鷹凪先輩は、変な人だと思う。
最初は見た目だけで怖そうな人だと思っていた。リーダーとしてみんなに指示を出している姿は、少し遠い世界の人にも思えた。
それでも実際話してみると、よく人をからかうし、そのくせふっと気遣う姿を見せたりするし。まあ、私を気遣ってくれたのは別れた彼女のことがあったからだって言っていたけど…。
先輩の昔の彼女って、どんな人なんだろう。いつか車の中で聞いた『彩花』さんがその人なのかな? 私のことが昔の自分と重なるって言っていたけど。先輩もその人にふられたのかな?
先輩と付き合っていても、他に好きな人がいて、結局最後までその人のことが忘れられなくて…。
私がもし今誰かと付き合っても、きっと片桐先輩の事が忘れられないと思う。さっき鷹凪先輩にタンカを切ったけど。やっぱりまだ辛い。どこにいても何をしてても、心のどこかであの人のことを考えている私がいる。だからその女の人の気持ち、分からなくはない。
でも、付き合っている相手はきっとすごく辛いと思う。付き合っている人が、自分ではなく、全く別の人を思っているとしたら? どれだけ近くにいてもその心は遠く離れているとしたら?
先輩はまだ引きずっていると言っていた。彼がどれだけ辛い思いをしたのか、私には想像もつかない。先輩を振り回した彼女は、ずるいと思う。わざと傷つけたんじゃないだろうけど、それでも他の人を想っているのに先輩に頼ったその人は、結局先輩を裏切ったことに代わりはないのだから。
片桐先輩と別れた時。あの痛みを今でもはっきりと覚えている。私はあの時世の中で自分が一番辛いと、一番不幸だと思いこんでいた。辛くて、苦しくて、誰かを恨むことさえあった。そんな自分がますます惨めで、笑い合っているあの人達との差に何度打ちのめされたことだろう。
それでも世の中には辛い事なんて山程あって、辛い思いをしている人もたくさんいて。しんどいのは私だけじゃないと気付かせてくれたのは、きっと鷹凪先輩が色んな話をしてくれたから。
そうしたら少しだけ、気持ちが楽になった。肩の力が少し抜けた気がした。
私もいつかまた、誰かに恋をするのだろうか?
でも、まだダメだと私の中で警笛が鳴る。
まだ誰かを好きにはなれない。
私は片桐先輩を忘れていないから。あれだけ突き放されて辛い思いを味わったのに。それでもまだ、あの人の事を忘れていない。こんな気持ちのままで誰かと付き合ってもきっと上手くいかない。
それでも忘れる努力をしようと決めた。いつまでもここで立ち止まっているわけにはいかないから。このままでは先に進めない。自分にけりをつけなきゃいけない。先輩の話を聞いて切実にそう思った。だからあんな約束をしたのだ。自分に枷を付けて負けない様に…。
でも、鷹凪先輩はどうなのだろうか。
『まだ引きずっている』と言っていた。あの人はまだ彼女のことが好きなんだろうか?
私はそのまま不覚にも眠ってしまっていた。
手に持っていた携帯の音で目を覚ます。
先輩からのメールだった。
『おはよ。別に怒ってないよ。来週はちゃんと来いよ』
朝届いたそっけないそのメールに、やっぱり怒らせちゃったのかな、と思った。
「美智ー! 先に席取ってて!」
少し離れたところで精算をしていた私の耳に、香の声が飛び込んできた。
場所は大学の食堂。昼休みももう後半にさしかかっていて、それでも人の数は多い。もう少し早い時間だったら、間違いなく、空いている席などなかっただろう。
私たちはたまたま午後は授業がなかったため、わざと遅めの食事をとることにしたのだ。 それでも空いている席はまだ少ない。もう少し遅めに来た方が良かっただろうか?
ここはセルフサービスで、先に会計を済ませてから自分で好きな席に座って食べることになっている。私は食事の乗ったお盆を抱えたままでうろうろと空いている席を歩き回った。
基本的に1つの机に、四つの椅子が付いている。混雑がピークの時には全部の席が埋まるのだけど、空いてくると机毎に埋まっていく。たとえ席が空いていても、その机に誰かが座っていれば、そこには座る人は少ない。
レジからは少し離れているが、窓際の奥に空いている机があった。
四つとも椅子が空いている。
私はお盆の上のスープがこぼれない様に慎重に歩いて、そのうちの1つに座った。
レジを済ませた香も私の方に近づいてくる。彼女の方を見ている私に横から声がかかった。
「あれ? 美智?」
聞き覚えのある女性の声。
香を見ていた私がその声のする方を見る。そこに立っていたのは、お盆を抱えためぐみ先輩だった。
「…め」
「あーめぐみ先輩! どうしたんですか?」
私よりも後から来た香の方が彼女に声をかけた。あきらかにとても嬉しそうな顔をしている。
「香も一緒だったのね。今日は久しぶりに食堂で食べようかと思って」
香は私の横に座ると、向かいの席を指す。
「はい、めぐみ先輩もよかったら一緒に食べませんか?」
香はめぐみ先輩に憧れている。心酔しているといってもいいくらいだ。このチャンスを逃さないと言わんばかりにめぐみ先輩に席を勧める。私も異存はないから「どうぞ」と笑顔で促した。
めぐみ先輩は少し考えた様な顔をして、とりあえず持っていたお盆を向かいの席に置いた。しかし自分は座らずに辺りを見回す。
「誰かと一緒なんですか?」
先なんか見えなくて、振り向いたってどこから来たのかは分からない。下を見ても底は見えない。ただ続けるのに精一杯で。周りなんて見る余裕もない。
いつ終わるともしれない緊張感につぶれそうな毎日だった。
――でもその痛みが少しだけ和らいだのは、きっとあの時から。
「ねーちゃん、英和辞典貸して」
突然耳に聞こえてきた声に、私は心臓が跳ね上がる思いがした。
「…あ! じゃあ、そろそろきりますね」
言って思わず通話ボタンを押してしまった。
それと同時に開く部屋のドア。
「…なにしてんの?」
弟があきれたような声になったのは携帯電話を持ったままで部屋に立ちつくす私の姿を見たからだろう。
「あ、いやーちょうどドア開けようかなって思って」
とっさに言い訳をするが、彼はめざとく私の手の携帯を見つける。
「何、電話してたの? あ! もしかして彼氏?」
「違う! 辞書ってこれでいいの? とっとと出て行きなさい!」
私は机の上にあった英和辞典を彼の手に押しつけると、背中を押して部屋の外に追いやった。
よりにもよって、あんなタイミングで入ってくるなんて…。
思わず電話を切ってしまった。さすがに、先輩は怒ってるだろうか?
携帯電話とにらめっこした挙げ句、結局メールで謝ることにした。
『さっきは突然切ってすみませんでした。怒ってます?』
こう入力すると、送信ボタンを押して、メールを送った。
そこでどっと疲れが押し寄せてきた私は、ベットへ大の字に倒れ込んだ。
長電話をしたのは久しぶりだ。
片桐先輩とは、つきあい始めた時に何度か電話した。けれどあの人は電話が苦手だったから、あまり長電話をしたことがなかったっけ。
鷹凪先輩は、変な人だと思う。
最初は見た目だけで怖そうな人だと思っていた。リーダーとしてみんなに指示を出している姿は、少し遠い世界の人にも思えた。
それでも実際話してみると、よく人をからかうし、そのくせふっと気遣う姿を見せたりするし。まあ、私を気遣ってくれたのは別れた彼女のことがあったからだって言っていたけど…。
先輩の昔の彼女って、どんな人なんだろう。いつか車の中で聞いた『彩花』さんがその人なのかな? 私のことが昔の自分と重なるって言っていたけど。先輩もその人にふられたのかな?
先輩と付き合っていても、他に好きな人がいて、結局最後までその人のことが忘れられなくて…。
私がもし今誰かと付き合っても、きっと片桐先輩の事が忘れられないと思う。さっき鷹凪先輩にタンカを切ったけど。やっぱりまだ辛い。どこにいても何をしてても、心のどこかであの人のことを考えている私がいる。だからその女の人の気持ち、分からなくはない。
でも、付き合っている相手はきっとすごく辛いと思う。付き合っている人が、自分ではなく、全く別の人を思っているとしたら? どれだけ近くにいてもその心は遠く離れているとしたら?
先輩はまだ引きずっていると言っていた。彼がどれだけ辛い思いをしたのか、私には想像もつかない。先輩を振り回した彼女は、ずるいと思う。わざと傷つけたんじゃないだろうけど、それでも他の人を想っているのに先輩に頼ったその人は、結局先輩を裏切ったことに代わりはないのだから。
片桐先輩と別れた時。あの痛みを今でもはっきりと覚えている。私はあの時世の中で自分が一番辛いと、一番不幸だと思いこんでいた。辛くて、苦しくて、誰かを恨むことさえあった。そんな自分がますます惨めで、笑い合っているあの人達との差に何度打ちのめされたことだろう。
それでも世の中には辛い事なんて山程あって、辛い思いをしている人もたくさんいて。しんどいのは私だけじゃないと気付かせてくれたのは、きっと鷹凪先輩が色んな話をしてくれたから。
そうしたら少しだけ、気持ちが楽になった。肩の力が少し抜けた気がした。
私もいつかまた、誰かに恋をするのだろうか?
でも、まだダメだと私の中で警笛が鳴る。
まだ誰かを好きにはなれない。
私は片桐先輩を忘れていないから。あれだけ突き放されて辛い思いを味わったのに。それでもまだ、あの人の事を忘れていない。こんな気持ちのままで誰かと付き合ってもきっと上手くいかない。
それでも忘れる努力をしようと決めた。いつまでもここで立ち止まっているわけにはいかないから。このままでは先に進めない。自分にけりをつけなきゃいけない。先輩の話を聞いて切実にそう思った。だからあんな約束をしたのだ。自分に枷を付けて負けない様に…。
でも、鷹凪先輩はどうなのだろうか。
『まだ引きずっている』と言っていた。あの人はまだ彼女のことが好きなんだろうか?
私はそのまま不覚にも眠ってしまっていた。
手に持っていた携帯の音で目を覚ます。
先輩からのメールだった。
『おはよ。別に怒ってないよ。来週はちゃんと来いよ』
朝届いたそっけないそのメールに、やっぱり怒らせちゃったのかな、と思った。
「美智ー! 先に席取ってて!」
少し離れたところで精算をしていた私の耳に、香の声が飛び込んできた。
場所は大学の食堂。昼休みももう後半にさしかかっていて、それでも人の数は多い。もう少し早い時間だったら、間違いなく、空いている席などなかっただろう。
私たちはたまたま午後は授業がなかったため、わざと遅めの食事をとることにしたのだ。 それでも空いている席はまだ少ない。もう少し遅めに来た方が良かっただろうか?
ここはセルフサービスで、先に会計を済ませてから自分で好きな席に座って食べることになっている。私は食事の乗ったお盆を抱えたままでうろうろと空いている席を歩き回った。
基本的に1つの机に、四つの椅子が付いている。混雑がピークの時には全部の席が埋まるのだけど、空いてくると机毎に埋まっていく。たとえ席が空いていても、その机に誰かが座っていれば、そこには座る人は少ない。
レジからは少し離れているが、窓際の奥に空いている机があった。
四つとも椅子が空いている。
私はお盆の上のスープがこぼれない様に慎重に歩いて、そのうちの1つに座った。
レジを済ませた香も私の方に近づいてくる。彼女の方を見ている私に横から声がかかった。
「あれ? 美智?」
聞き覚えのある女性の声。
香を見ていた私がその声のする方を見る。そこに立っていたのは、お盆を抱えためぐみ先輩だった。
「…め」
「あーめぐみ先輩! どうしたんですか?」
私よりも後から来た香の方が彼女に声をかけた。あきらかにとても嬉しそうな顔をしている。
「香も一緒だったのね。今日は久しぶりに食堂で食べようかと思って」
香は私の横に座ると、向かいの席を指す。
「はい、めぐみ先輩もよかったら一緒に食べませんか?」
香はめぐみ先輩に憧れている。心酔しているといってもいいくらいだ。このチャンスを逃さないと言わんばかりにめぐみ先輩に席を勧める。私も異存はないから「どうぞ」と笑顔で促した。
めぐみ先輩は少し考えた様な顔をして、とりあえず持っていたお盆を向かいの席に置いた。しかし自分は座らずに辺りを見回す。
「誰かと一緒なんですか?」