GOLDEN BOY
僕とみゆきは、十六年前と今の間を鋏で切ってくっ付けたみたいな、幼くてくだらない会話を続けた。それは古い恋人との再開の会話としては最高だったけれど、古い恋人との最後になるかも知れない会話としては少し乱暴過ぎた。でもいい。僕達には重い話は似合わない。だってそんな話、一度だってした事がなかった。僕達の間には、在日問題も民族差別も何もなかった。今だって、そうだ。そのことを知っていても知らなくても、みゆきはみゆきだ。一学年年上でバカの日に生まれた、僕が十六年前に大好きだった女の子だ。そうだろ、みゆき。みゆきは、どう思う?
「ちょっとその腹、触らせてよ」
「ああ、いいよ。でも期待するほど出てねえぞ」
思い出したように寝癖を気にする彼女に、僕はもっと近付いて行く。冷たい掌が僕の腹に触れ、堪らなくなった。自制心が利かなくなった僕は、彼女に覆い被さるようにして彼女の頭を抱き込んだ。細くなった髪を撫でて、つむじの匂いを嗅ぐ。薬品臭に混ざって、幽かだけれど、懐かしいみゆきの匂いがした。
「充分出てるよ。おっさん」
「おっさんって……、俺より年上のくせに」
「そんなのほんの何ヶ月かじゃん」
彼女の髪を濡らしてしまった。同時に僕のゆるいシャツは、みゆきの涙を吸って、肌に貼り付く。
「ごめんね……、育てちゃった」
「いいよ。ありがと」
いつの間にか龍成は病室から消えている。僕は何度も、みゆきのつむじに口づけた。細い髪を、唇で噛みしめる。
「塩っぱいな……」
「わたしも」
どれくらい時間が経っただろうか。声に出さない思い出話が、皮膚を通して一頻り語られた後、涙で顔をぐちゃぐちゃにしたまま、みゆきはやがて小さく寝息をたてた。
「ほんとは持ってたんですよ」
帰りのエレベーターの中で、龍成はリュックサックから皺だらけの白い封筒を取り出した。手に取ると、表には、ボールペンの文字で『龍ちゃんへ』とある。
「俺実は中身見ちゃったんすけど。ゴミ箱に捨ててあって。最初は俺宛の遺書か何かかと思ったんすけど、中身見たら確実におじさん宛だから」
僕は一人になるまで我慢が出来ず、その場で封筒を開いた。無機質な蛍光灯の光に照らされたその手紙に、見覚えのある筆跡がある。
龍ちゃんへ
浮気ばっかししてごめんね。産んじゃってごめん。CMの仕事がんばってね。ありがと。
バイバイ!
紙の右下には少しだけ上手くなったみゆきの似顔絵が描いてあり、最後の『バイバイ!』はその顔にかけた吹き出しに入っている。
「おもしろいっしょ」
エレベーターの扉が開いた。
間引き照明された薄暗いホールに踏み出しながら、龍成が振り返って言った。
僕は手紙をポケットに仕舞い、奥歯をぎゅっと噛みしめた。
「ああ。結婚すれば良かったよ」
みゆきが亡くなったのは、それから四日後の深夜だった。
机の端に置いた携帯電話が光った瞬間に、それが龍成からの着信である事と、訃報である事を何故か直感的に悟った。それは雨上がりの夜で、風の強い澄んだ空には、月に輪郭を照らされた千切れ雲が流れていた。
17
日本の仏式とさほど変わらない葬儀で、僕の知らない民族名、漢字三文字のみゆきは、僕の知らない三十代の顔で、額縁の中から皆に笑いかけていた。
僕は目をきつく閉じて焼香し、龍成を含めた親族達に頭を下げ、そっと斎場を後にした。僕と世代の似た男が二人ぐらい親族席にいたけれど、敢えて見ない事にした。彼らの心に波風を立てたくなかったし、彼女と結婚出来た幸せな男の顔を、僕はまだ知りたくなかった。
カリフォルニアみたいな青空に、調布の飛行場から飛び立ったセスナ機がプロペラの音を響かせている。もう数時間したら、みゆきは煙になって、あの空に昇って行くのだろう。我ながら未練たらしく斎場を振り返ると、目の前に龍成が立っていた。
「おじさんどうも」
彼の手が僕の肩口に触れる。人懐っこい笑顔に、僕は眩しくて目を細めた。スーツを着た彼は、たった数日の間に、ずっと逞しくなったように感じる。
「ホントいろいろすいませんでした」
「何が?」
謝りたいのは僕の方だ。
「最後にちょっとでも会わせてあげたかったんで……、つい勝手なことしちゃって……、俺もおじさんがどんな人だか見てみたかったし。巻き込んじゃって悪かったっす」
「どんな人だった?」つい口を滑らせた僕はすぐに撤回して、彼を拝んだ。「あ、なし! やっぱ聞きたくないや、言わないで。聞きたくない」
「だから、まともな人っすよ」
龍成は暫くの間笑って、ふと寂し気に言った。
「ああ……、やっと終わったな」
今度は僕の方が、龍成の肩に手をかけた。そのまま彼を引き寄せて抱きしめていいのかどうか、分からないでいる。
「また会えるかな」
みゆきはきっと、今この瞬間、妙にぎこちない僕達を見て笑っているだろう。
「何言ってんすか。会えるに決まってるっしょ。だって借りたDVDとかまだ返してないじゃないっすか。会わなきゃこのままパクっちゃいますよ」
心地良い風が、黒いネクタイを揺らして駆け抜けた。僕の前には大きな不安があるし、龍成の周りにどんな困難が貼り付いているのか想像も出来ない。でも……、問題を共有するなんて、もっと先の話だ。なあ、みゆき。それでいいかな。
僕はただ、彼に聞かせたい音楽や、観せたい映画や、食べさせたい外国の料理の事を考えて、三十八歳の胸を焦がした。
僕は彼に好かれたい。彼がどんなに、僕を嫌いになっても。
(了)
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作品名:GOLDEN BOY 作家名:新宿鮭