GOLDEN BOY
1
まるで、うんこ製造機だ。
ここ数ヶ月の僕ときたら、起きるのはきまって昼過ぎ。そのまま顔も洗わず歯も磨かず日がな一日テレビを観て音楽を聴いてコンビニの弁当を食べてたまに煙草を吸い、真夜中になってやっとシャワーを浴びるけれどどこにも行かず、窓ガラスの色が薄紫に明度を上げてくる頃に、オナニーして布団を被る。そんな何の生産性もない堕落しきった日々を過ごしている。三十八歳にもなってこんな生活をしていると知ったら、少年時代の僕はどれだけ失望するだろうか。
健康の為なんかじゃなくただ節約の為だけに一日五本と決めている煙草の一本目をくわえて、午後一時であるらしい通りを見下ろす。ベランダから見える世界はいたって正常で、世界を覆っているはずの不景気のサインはどこにも見付からない。たまに通りをふらついている浮浪者だって、今日は一人も見あたらない。
西新宿の外れ。道を一本挟んでオフィスビルと古いマンションが向かい合うこの通りには、遅めのランチに出て来たサラリーマンやOLが目立つ。その顔はどれも楽しそうで、生命力に溢れている。ついこの前までみんな同じにしか見えなかった彼らの顔が、今の僕には眩しく見える。どこからか飛んでくる桜の花びらが、会社員の安定した人生を祝福している。
アリとキリギリスの話が頭に浮かぶ。
つい最近まで自分を特別な人間だと思っていた僕は、惨めな潜在的失業者の一人として、今日もまたワンルームマンションに引きこもっている。
煙草が根元まで灰になっても、僕はただじっと、春風の吹き抜ける明るい通りを見下ろしている。
フリーのCMディレクター。それが僕の仕事だ。
と、言い切れなくなった自分が哀しい。
去年の秋まで他人事だと思っていたアメリカの大不況が、年明けと共にあっという間に僕を呑み込んで、もう四ヶ月が経つ。不況の時ほど宣伝が必要になるからCM業界は不況に強い! なんて言われていたのはもうずっと前の話で、物が売れなくなった今、真っ先に削られているのは広告費だ。リクルーティングやブランディングを目的にした派手な企業広告はいつの間にかその殆どがテレビ画面から消え、新作の制作費を出せず旧作の契約を延長したような季節感のずれたCMが目立ち始めた。元々それほど売れっ子でもない僕に仕事が来なくなったのは、考えて見れば当然のことなのかもしれない。
日本中でクビを切られまくっている派遣社員の人達と違って、フリーの僕には分かり易い失業の瞬間はなかったけれど、思えば年明けから新規のスケジュール問い合わせがぴたりと来なくなっていた。一、二月は仕掛かりの仕事を複数抱えて休みなく働いていた時期で、まあそのうち何か入るだろうと甘く見ていたのだ。
最後の作品の編集作業が一段落したあたりで、やっと現実が見えてきた。かかってくる電話の本数自体が日を追うごとに少なくなり、編集が終わった頃には着信がゼロの日も珍しくなくなり、気が付くとそれが日常になっていた。もしかしたら故障しているのではないかと思って固定電話から自分に電話してみたら、久しぶりに聞く着信音とバイブレーションに驚いて携帯を落としそうになった。
仕事がないまま、桜が咲いて、春が来た。
僕は社会から、忘れられたんだ。
溜息を吐くと同時に、半透明の僕がベランダから飛び降りて弾ける。そんな勇気なんてないと分かっているのに、自殺のイメージが頭から離れない。
会社員達が、飛び散った僕の脳漿の上を何知らぬ顔で通り過ぎていく。
全身の関節を有り得ない向きに折って、ぐにゃりと横たわる僕は、三十八歳。
サラリーマンになるには、もう遅過ぎる。
年をとることは自分の可能性を減らしていく事だと、今になってやっと気付いた。いつ仕事が入るか分からないから、アルバイトをすることも出来ない。仕事なんて、もう一生来ないかも知れないのに……。
ディレクターを続けたい。
何も生み出さない時間をただ無為に過ごすのは、人生の無駄遣いだ。
だったら知り合いのプロデューサーに電話をかけて、営業でもすればいいんじゃないか。
いや、それはどうだろう。
何か仕事ないですか? なんて電話をかけたら、あいつも終わったな、なんて陰口を言われて、さよならフォルダーに入れられるだけじゃないか。仕事のない現状を晒して、さらに人気がなくなっていくスタッフを今まで僕は何人も見て来た。
毎日同じことを考えて、結局は何もしない。
精神が壊れるか。
仕事の電話が鳴るか。
体はだらしなく弛緩して脂臭いのに、脳の一部、不安を感じる部分だけがチキンレースの真っ最中みたいにヒリヒリしている。僕は一体、どうなるんだろう。これは、紛れもなく恐怖だ。
部屋の中に戻ってノートパソコンを開く。届いたスパムメールを消して、ポータルサイトのニュースを読んだら、もう他にやる事がなくなった。僕の一日はさっき始まったばかりなのに。
ベランダにいた間にもしや着信はなかったかと携帯電話の履歴を見ると、そのトップにあるのは『家』。つまり二週間前に部屋の固定電話から掛けた、僕からの電話だ。
ため息しか出て来ない。
サラリーマンのいない時間を見計い、寝起きのままの格好に上着を羽織って外に出た。何もしていなくても腹は減るし、当たり前だけど食事をすればお金がかかる。
僕は結婚もしていないし車や不動産のローンもないから、景気が悪くなる前と同じレベルで生活をしても(と言ってもコンビニで値段を気にせずに物を買うとか、ラーメンに何となくチャーシューと味玉をトッピングするとか、そんなレベルだけど)、蓄えで一年ぐらいは食いつなげるだろう。だけど、もう贅沢は出来ない。このまま永遠に仕事がないかもしれないのだ。
0-x=-x
収入なき支出。
働かざる者食うべからずと言うけれど、情けないことに今の僕はまさに働かずに食っている。
ただのうんこ製造器にグルメは無駄だ。
だから僕は、コンビニで安い弁当を買う。
「あたためますか?」
「お願いします」
今日初めての会話は、二秒で終わった。店員の女の子は慣れた動きで僕の弁当をレンジに収めた。ボーリングシャツのような制服を着た彼女の控えめな胸には〈シン〉と書かれた名札がついている。子供の頃に好きだったタイガー・ジェット・シンというインド人のプロレスラーが頭に浮かんだけど、彼女の顔は中国人か韓国人に見える。黒髪で色白のシンさんは、僕のお願いしますを三十秒間温めて薄茶色のビニール袋に入れた。
コンビニはいつから銀行になったり宅急便屋になったりしたんだろう。自動ドアを出て何気なくレジを振り返ると、シンさんは公共料金の支払伝票に領収印を押している。次に並んでいるキャバ嬢風の女は宅急便だと思われる段ボール箱を抱えながら、不機嫌そうに顔を歪めている。ガラス扉にはアルバイト募集の貼紙がしてあるけれど、あんな複雑な仕事をやりこなせる自信がない。二十代までは、何だって出来ると思っていたのに、今では留学生の女の子にだって勝てる気がしない。
味気ない弁当を飲み込みながら考えるのは、果てしなく長い今日の残り時間をどう過ごすかだ。
まるで、うんこ製造機だ。
ここ数ヶ月の僕ときたら、起きるのはきまって昼過ぎ。そのまま顔も洗わず歯も磨かず日がな一日テレビを観て音楽を聴いてコンビニの弁当を食べてたまに煙草を吸い、真夜中になってやっとシャワーを浴びるけれどどこにも行かず、窓ガラスの色が薄紫に明度を上げてくる頃に、オナニーして布団を被る。そんな何の生産性もない堕落しきった日々を過ごしている。三十八歳にもなってこんな生活をしていると知ったら、少年時代の僕はどれだけ失望するだろうか。
健康の為なんかじゃなくただ節約の為だけに一日五本と決めている煙草の一本目をくわえて、午後一時であるらしい通りを見下ろす。ベランダから見える世界はいたって正常で、世界を覆っているはずの不景気のサインはどこにも見付からない。たまに通りをふらついている浮浪者だって、今日は一人も見あたらない。
西新宿の外れ。道を一本挟んでオフィスビルと古いマンションが向かい合うこの通りには、遅めのランチに出て来たサラリーマンやOLが目立つ。その顔はどれも楽しそうで、生命力に溢れている。ついこの前までみんな同じにしか見えなかった彼らの顔が、今の僕には眩しく見える。どこからか飛んでくる桜の花びらが、会社員の安定した人生を祝福している。
アリとキリギリスの話が頭に浮かぶ。
つい最近まで自分を特別な人間だと思っていた僕は、惨めな潜在的失業者の一人として、今日もまたワンルームマンションに引きこもっている。
煙草が根元まで灰になっても、僕はただじっと、春風の吹き抜ける明るい通りを見下ろしている。
フリーのCMディレクター。それが僕の仕事だ。
と、言い切れなくなった自分が哀しい。
去年の秋まで他人事だと思っていたアメリカの大不況が、年明けと共にあっという間に僕を呑み込んで、もう四ヶ月が経つ。不況の時ほど宣伝が必要になるからCM業界は不況に強い! なんて言われていたのはもうずっと前の話で、物が売れなくなった今、真っ先に削られているのは広告費だ。リクルーティングやブランディングを目的にした派手な企業広告はいつの間にかその殆どがテレビ画面から消え、新作の制作費を出せず旧作の契約を延長したような季節感のずれたCMが目立ち始めた。元々それほど売れっ子でもない僕に仕事が来なくなったのは、考えて見れば当然のことなのかもしれない。
日本中でクビを切られまくっている派遣社員の人達と違って、フリーの僕には分かり易い失業の瞬間はなかったけれど、思えば年明けから新規のスケジュール問い合わせがぴたりと来なくなっていた。一、二月は仕掛かりの仕事を複数抱えて休みなく働いていた時期で、まあそのうち何か入るだろうと甘く見ていたのだ。
最後の作品の編集作業が一段落したあたりで、やっと現実が見えてきた。かかってくる電話の本数自体が日を追うごとに少なくなり、編集が終わった頃には着信がゼロの日も珍しくなくなり、気が付くとそれが日常になっていた。もしかしたら故障しているのではないかと思って固定電話から自分に電話してみたら、久しぶりに聞く着信音とバイブレーションに驚いて携帯を落としそうになった。
仕事がないまま、桜が咲いて、春が来た。
僕は社会から、忘れられたんだ。
溜息を吐くと同時に、半透明の僕がベランダから飛び降りて弾ける。そんな勇気なんてないと分かっているのに、自殺のイメージが頭から離れない。
会社員達が、飛び散った僕の脳漿の上を何知らぬ顔で通り過ぎていく。
全身の関節を有り得ない向きに折って、ぐにゃりと横たわる僕は、三十八歳。
サラリーマンになるには、もう遅過ぎる。
年をとることは自分の可能性を減らしていく事だと、今になってやっと気付いた。いつ仕事が入るか分からないから、アルバイトをすることも出来ない。仕事なんて、もう一生来ないかも知れないのに……。
ディレクターを続けたい。
何も生み出さない時間をただ無為に過ごすのは、人生の無駄遣いだ。
だったら知り合いのプロデューサーに電話をかけて、営業でもすればいいんじゃないか。
いや、それはどうだろう。
何か仕事ないですか? なんて電話をかけたら、あいつも終わったな、なんて陰口を言われて、さよならフォルダーに入れられるだけじゃないか。仕事のない現状を晒して、さらに人気がなくなっていくスタッフを今まで僕は何人も見て来た。
毎日同じことを考えて、結局は何もしない。
精神が壊れるか。
仕事の電話が鳴るか。
体はだらしなく弛緩して脂臭いのに、脳の一部、不安を感じる部分だけがチキンレースの真っ最中みたいにヒリヒリしている。僕は一体、どうなるんだろう。これは、紛れもなく恐怖だ。
部屋の中に戻ってノートパソコンを開く。届いたスパムメールを消して、ポータルサイトのニュースを読んだら、もう他にやる事がなくなった。僕の一日はさっき始まったばかりなのに。
ベランダにいた間にもしや着信はなかったかと携帯電話の履歴を見ると、そのトップにあるのは『家』。つまり二週間前に部屋の固定電話から掛けた、僕からの電話だ。
ため息しか出て来ない。
サラリーマンのいない時間を見計い、寝起きのままの格好に上着を羽織って外に出た。何もしていなくても腹は減るし、当たり前だけど食事をすればお金がかかる。
僕は結婚もしていないし車や不動産のローンもないから、景気が悪くなる前と同じレベルで生活をしても(と言ってもコンビニで値段を気にせずに物を買うとか、ラーメンに何となくチャーシューと味玉をトッピングするとか、そんなレベルだけど)、蓄えで一年ぐらいは食いつなげるだろう。だけど、もう贅沢は出来ない。このまま永遠に仕事がないかもしれないのだ。
0-x=-x
収入なき支出。
働かざる者食うべからずと言うけれど、情けないことに今の僕はまさに働かずに食っている。
ただのうんこ製造器にグルメは無駄だ。
だから僕は、コンビニで安い弁当を買う。
「あたためますか?」
「お願いします」
今日初めての会話は、二秒で終わった。店員の女の子は慣れた動きで僕の弁当をレンジに収めた。ボーリングシャツのような制服を着た彼女の控えめな胸には〈シン〉と書かれた名札がついている。子供の頃に好きだったタイガー・ジェット・シンというインド人のプロレスラーが頭に浮かんだけど、彼女の顔は中国人か韓国人に見える。黒髪で色白のシンさんは、僕のお願いしますを三十秒間温めて薄茶色のビニール袋に入れた。
コンビニはいつから銀行になったり宅急便屋になったりしたんだろう。自動ドアを出て何気なくレジを振り返ると、シンさんは公共料金の支払伝票に領収印を押している。次に並んでいるキャバ嬢風の女は宅急便だと思われる段ボール箱を抱えながら、不機嫌そうに顔を歪めている。ガラス扉にはアルバイト募集の貼紙がしてあるけれど、あんな複雑な仕事をやりこなせる自信がない。二十代までは、何だって出来ると思っていたのに、今では留学生の女の子にだって勝てる気がしない。
味気ない弁当を飲み込みながら考えるのは、果てしなく長い今日の残り時間をどう過ごすかだ。
作品名:GOLDEN BOY 作家名:新宿鮭