城塞都市/翅都 40days40nights
1 鍵
わたしの知ってる世界の話。一番身近な街のこと。
今ある世界を作ったのは、「戦争」とかいう今はもうない国同士の争いごとで、最後の戦争が終わったのはわたしが生まれるずーっと、ずーっと前のことだそうだ。
「大壊滅」と呼ばれるその戦争がどうやって始まって、どうやって終わったのか、詳しいことをわたしは知らない。わたしだけじゃなく、この街でそんなことを知ってる人間を探す方が難しいと思う。なにしろそれはとんでもなく古い時代の話で、詳しい記録なんかもうほとんど残っていないそうだから。
それでも細々と伝わっているところによると、その頃、この街はひとつの「塞城」だったらしい。
「塞城」というのは、この街がまだ「国」と呼ばれていた頃、外からやってくる敵を防ぐために作られた建物のことなのだそうだ。戦争で世界がある日突然めちゃくちゃになってしまった時、此処だけほとんど壊れることなく残ったのも、その敵からたくさんの人を守ろうとした昔の王様が、此処をとても、とても丈夫に作っておいたからなのだという。
荒野にぽつんと聳え立つ鉄鋼作りの塞城は、世界崩壊の最中にあった人々の目に、とても頼もしく映ったに違いない。その威容は辛くも生き残った人々を自然とその内に呼び集めることになり、塞城の中がいっぱいになって、誰も入れなくなっても、集まってくる流民は絶えることがなかった。人々は塞城の周りに家を建て、人が増えるに従って家も増え、時が経って木造のバラックが鉄筋やコンクリートに変わる頃には、無計画な増築によって張り巡らされた道は、地図を作ることなど不可能な迷路へとその姿を変えていた。
荒野に聳え立つ鋼鉄の城の面影は年ごとに次第に薄くなり、やがて混沌はすべてを飲み込んで、かつて人々を守るために作られた塞城は、わたしがよく知る今の「街」になった。
広大なスラムに取り囲まれた、世界最大の城塞都市。
その街の名を、「翅都」と言う。
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兄さんが出かけてから、もう大分時間が経っていた。友達に会いに行くと言っていたから、多分そのお友達とお酒でも飲んで酔っ払っているに違いない。まったく、しょうがない兄さんだ。いくら明日この街を離れる予定だからって、あんまり飲みすぎてなきゃいいけれど。
わたしは溜息をついて、薄い毛布の下で体を縮めた。先に寝ていろとは言われてたけども、どうにもこうにも落ち着かなかった。なんだか今まで感じたことのない、不安な気持ちばかりがどろどろと胸に渦巻いている。
寝返りを打って、古いアパートの壁の染みを見つめた。その壁の染みさえ動き出しそうに不安で、もう無理矢理にでも寝てしまおうかと、硬く目を閉じたその時のことだ。
「起きろ、アンヘル」
「あ、兄さん、お帰りなさい……どうしたの?変な顔しちゃって」
「なに呑気なことを言ってるんだ。起きたなら上着を持って、早くこっちへ」
がちゃりとドアの開く音がした。ついでがちゃがちゃと鍵を閉める音。急いだ様子で広くないリビングを突っ切って、わたしの居る寝室に向かってくる足音に起き上がって見ると、ノックもなくドアを開けて顔を覗かせたのは、案の定兄さんだった。
遅い帰宅を叱ってやろうと口を開けば逆に怒られて、硬い表情を崩さないまま言う兄さんの促しに、わたしは慌ててベッドから降りて靴を履く。
「ちょっと、呑気ってなに、どうしたの?」
「どうしたのって……ああ、そうか、そうだったな。そうだった」
コート掛けから上着を取ったわたしの腕を掴み、ぐいぐいと引っ張りながら台所へと向かう兄さんを見上げながらわたしが聞くと、兄さんは不思議そうな顔をしてから、一人で頷いた。
「いいか?アンヘル。兄ちゃんの言うことをよく聞け」
兄さんは台所に入ると、わたしの腕を放してシンク下の床下収納庫の蓋を上げた。
目線でわたしに「入れ」と促しながら、低く言う。
「ここでじっとしてるんだ。何があっても、動いたり声を上げたりするなよ」
「ちょ、ちょっと待ってよ兄さん、なんでこんな」
「いいから早く!入れ!」
床下収納庫と言っても、そう大きいものじゃない。酷く解りにくいところにあったし、狭い上にろくに使ったこともないから埃だらけで、おまけに暗闇のわだかまっている隅っこでは、ムカデみたいな虫が死んで干からびていた。
こんなところにいきなり入れと言われても困る。わたしが素で顔をしかめた途端にドアが鋭くノックされて、兄さんは焦ったように短く叫んで無理矢理わたしの腕を引き、床下に押し込んで上から蓋を閉めた。
「兄さん!?何考えてるの!?」
「いいか、動くな。声も出すなよ」
震えた声で、兄さんが言った。怯えたようなその様子は普段、調子が良すぎて頭にくるくらいの兄さんらしくなかった。
蓋を閉められてしまった収納庫は、埃っぽい匂いが充満する暗闇で、多少の出来事じゃ動じないつもりだったけれど、こうなってくると流石のわたしもなんだか怖くなってきてしまう。
一体何が起こると言うのだろう。あんまりにも真剣すぎる兄さんが怖くて逆らえなかったけど、酔っ払っての悪戯にしては、こんなの全然笑えない。夢なら早く覚めれば良い。っていうか、覚めろ。早く早く。もう眠るのは嫌だ。夢も、見たくない。だから、お願いだから早く。
そう思った瞬間に、目が覚めた。
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以上が、うとうととしながら、見知らぬ人の眠り慣れないベッドの上でわたしが見た夢の全てだ。
ぽかんと目を開けて最初に見えたものが、見慣れたアパートの染みだらけの天井だったなら、もしかしたらこんな夢は見なかったのかもしれない。どこかから漂ってきた空気が、嗅ぎ慣れた路地裏の饐えた匂いをしていたのなら、やっぱり見なかったのかもしれない。
でも現実に、わたしが見上げていたのは暗い部屋の、一面に白く塗り直されたばかりらしい綺麗な天井だったし、漂ってくる空気は溶けたバターとシロップの甘い匂いがしていた。
瞬きをする。天井は消えない。空気の匂いの甘さも。今度は夢じゃないんだと思っておそるおそる起き上がると、体の上からするすると肌触りの良い上掛けが滑り落ちた。
目の奥の方がズキズキと痛んで、もう少し寝ていたほうがいいのかなと思ったけれど、またあの夢を見るのかもしれないと思ったら、もう眠るのは嫌だった。
起き上がって痛む頭を抱えながら、あれからなにがどうなったんだろうと思った。記憶は、夢の終わりで途切れている。でも今わたしが居るところは、明らかに兄さんがわたしを押し込んだ台所の床下収納じゃない。わたしと兄さんが暮らしていた、裏路地のボロアパートでもない。
兄さんはどうしたんだろう。そしてここは何処だろうと見回すと、ずっと眠っていた所為か、暗いなりに部屋の様子は良く見えた。
作品名:城塞都市/翅都 40days40nights 作家名:ミカナギ