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深川ひろみ
深川ひろみ
novelistID. 14507
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挽歌 - 小説 嵯峨天皇 -  第一部

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第一章 春霙哀歌(5) - 神野 -



「神野、高志!」

 又子の死を聞き、すぐに駆けつけたのは安殿だった。遺体の傍にいた神野は顔を上げ、安殿を見る。
「あ、東宮さま」
 周囲の者が驚くのを無視して、つかつかと神野に歩み寄る。もともと白いその顔が、さらに青ざめている。
 神野は平伏しようとした。
「馬鹿、いい。大変だったな。高志は」
「向こうで眠っています」
「そうか。あいつはまだ二歳(ふたつ)だからな。判らんだろう」
 そう言って膝をつくと、神野の小さな身体をぎゅっと抱いた。まだすっぽりと、腕の中に収まってしまう。
「大丈夫か」
「……はい……」
「震えてるな。可哀想に」
 背をぽんぽんと叩く。
 腕の中で、弟の身体が硬くなったのが判った。くぐもった声を発する。
「神野?」
 何事かと安殿は身を離す。神野は顔をそむけ、激しく嘔吐した。
「うわっ」
「神野さま!」
「東宮さま!」
 二通りの声があがった。神野を気遣う声と、安殿を気遣う声。室内がさらにざわめく。大伴や、実母を亡くした高津内親王がいる中での大騒ぎに眉を顰(ひそ)める者もいたが、そこは東宮のなすことである。注意する者はいない。遅れてついてきた安殿の従者たちが慌てて動き出す。
「誰か、神野さまをあちらへおつれして」
「東宮さま、どうぞこちらへ」
 まとわりつく手を、安殿はうるさげに払いのける。
「構わん。おれが連れてく。―――どこだ」
「お任せください。汚(よご)れます」
 その言葉に、安殿はカッとなった。
「うるさいっ! 汚れるだと!? おれの弟だ!」
 怒鳴りつけて立ち上がる。
「もういい、おれの室(へや)にゆく」
「東宮さま! なりません!」
 制止もきかず、神野を抱き上げると、安殿はばたばたと部屋を出て行った。

          ☆

「ほら、水」
 安殿は高足の杯を差し出す。神野は受け取り、少しずつ飲んだ。
 ふたりは着替えを済ませている。安殿が命じて服を持ってこさせ、自分たちで着替えたのである。
「汚れる、だと? 何て薄情な奴らだ。たったひとりの弟が、死にかけてるっていうのに!」
 怒りのあまり、ついつい表現が大袈裟になる。安殿はしばらくカンカンに怒っていた。
 室内には、誰もいない。
「おれが呼ぶまで、誰も入ってくるな。近づくな。いいか、来たらクビだっ」
と安殿は息巻き、全員退がらせてしまったのである。
「大丈夫か。背をさすってやろうか」
 神野は首を振る。その顔色は紙のようだ。
「大変だったな。本当に」
 もう一度、神野は首を振った。空になった自分の杯を、安殿は傍らに置く。
「無理もない。ここんとこ、ひどい目に遭いすぎたよ」
 部屋は蒸し暑い。庭からは蝉の声が聞こえてきていた。
 杯を口に当てながら、神野の眼はじっと安殿に向けられていた。
 口をきくことができないままに。
 言えるわけがない。
 自分が嘔吐した原因が、この兄そのひとにあるなどと。

          ☆

「おばあさまは、どうしていつも、そうやって書いているのですか」
 祖母高野新笠が存命のとき、神野はときおり、その房を訪れた。寝込むことが多くなった新笠の部屋はいつもしんとしている。
 神野はこの祖母が好きだった。
「そうだねえ」
 手を止めて、新笠は皺だらけの顔を神野に向ける。
「どうしてだろうねえ」
「わからないの?」
「そうだねえ」
 新笠は神野を膝に抱き上げた。神野ははしゃいで、老婆の細い腕に手を絡める。成り立っているようないないような、禅問答のような会話だ。
「ばばにはな、ほかにどうしようもないんだよ」
 新笠が初めてそんなことを言ったのは、亡くなる前の日のことだった。
 雪が降っている。
 年の暮れ。日ごとに増してくる寒さが堪えて、彼女は床についていた。
「山部がな―――お前の父さまがな、自分の弟にひどいことをしたんだよ」
 死への予感が、彼女にそんなことを言わせたのかもしれない。あるいは、ひとりごとのつもりだったのかもしれない。いずれにせよ、早良の事件の後に生まれ、現在三歳の神野は、事件については何も知らない。昔話を語るように、彼女はゆっくりと言った。
「ひどいこと?」
「……そう。それであの子は、死んでしまった……」
 吐息のように。
 耳を澄ませなければ聞き逃してしまいそうな、小さな声だった。
「だからばばが、早良に謝っているんだよ。山部を許してやっておくれ、ってね……」
「謝る……?」
「……許してやっておくれね……」
 神野はもっと尋ねようとした。しかし、神野の声は既に新笠には届いていなかった。程なく彼女は昏睡状態に陥り、翌日の夜に息を引きとった。
 神野の胸に、大きな謎を残したまま。

          ☆

 神野は、周囲に評判になるほど、聡明な子供だった。
 祖母の言葉を、彼はゆっくりと理解していった。
 父親が、実の弟を、殺したと。
 詳しい事情などは勿論判らない。
 だが少なくとも神野には、兄安殿や母乙牟漏、そして父桓武といった身近な肉親が、何か得体の知れぬ、不気味なものに思えてきた。
 弟を殺した父。
 東宮である兄。
 そしてその母……
 そんなことを、論理的に考えたわけでは勿論ない。ただ、だからこそ、神野はひたすら怯えた。
 逆らうことが、できなくなった。甘えることが、できなくなった。
 父や母が嬉しそうに、安殿を「東宮」と呼ぶのが怖かった。
 父や母に、安殿と比較して褒められるのが怖かった。
 しかしとるに足らない、いらない人間だと思われるのはもっと怖かった。
 怖がっていると知られるのも、怖かった。
 だが……
 それと同時に、やはり彼らは幼い神野にとって、かけがえのない大切な人たちだった。
 優しくされれば、褒められれば、心配されれば、嬉しかった。愛されたかった。
 でも優しくされるのも、怖かった。
『うるさいっ! 汚れるだと、おれの弟だ!』
 安殿に優しく気遣われながら。
 得体の知れない恐怖と、兄への本能的な愛との間で、神野は立ちすくんだ。
 その二律背反の重みに、身体が悲鳴をあげたのである。

          ☆

 蝉の声が、聞こえる。
 神野は身体を横たえていた。安殿はその背をさすったりしながら、横に座っている。
 身体に、じっとりと湿った空気がまとわりつく。その重さが息苦しい。
「菓子でも、持ってこさせようか」
 安殿が、不意に言った。
 もともと黙っているのは得手ではない。沈黙が続くと、何か喋りだす。
 神野は首を振った。
「そうか? 遠慮するなよ」
「……はい」
 消え入りそうな声で、やっと神野は言った。それでも、安殿はホッとしたようだ。
「ん、よしよし。―――じゃ、水でも持ってこさせようかな」
 空になった杯を持って、ひょいと立ち上がる。その袴(はかま)の裾を、とっさに神野は掴んでいた。
「あ?」
 安殿は再び神野を見る。
「どうした?」
 神野は首を振った。何度も、何度も振った。頭がずきずきして、たまらなかった。
 不意に、涙があふれた。
「お……おい、神野」
 安殿はうろたえ、慌ててしゃがみこむと、又子の部屋でしたようにその身体を抱き寄せる。神野はすがりついた。