挽歌 - 小説 嵯峨天皇 - 第一部
第二章 夏日逍遥(2) - 兄弟たち(2) -
☆
宮中の書物が集められた御書所は、内裏を出てすぐの北西にある。本をよく読む神野にとっては、五日とおかずに通う、行き慣れた道である。
歩いてゆくと、途中、大伴親王とすれ違った。神野同様に、従者をひとり連れている。神野を見ると笑顔を見せた。
「兄上」
神野と一カ月しか違わないが、彼は必ず「兄上」と呼ぶ。昨年元服を終え、安殿と神野の同母妹、高志内親王を妃としている。
神野は足を止めた。大伴の従者の手に文巻があるのを見とめて、
「お前も御書所の帰りか?」
と尋ねる。大伴もまた、書が好きである。
「ええ。兄上は、これからですか」
「うん」
「そうそう、兄上。御元服と御結婚、おめでとうございます。昨夜は盛大でしたね」
神野は笑って肩を竦めた。大人びた仕草である。
「少し過ぎたぐらいだよ」
「そんな。東宮の、ただひとりの同母弟であられるのですから」
大伴は、人と話すとき少し前かがみになるのが常だった。そのため本来は神野よりも長身だが、傍目には同じぐらいに見える。
「何を読まれているのか、見てもよいですか」
「構わないよ」
従者が差し出した文巻を受け取ると、大伴はうわあ、と声を上げた。
「兄上は、ずいぶんと難しい法律の勉強をしておられるんですね」
「まあ、後に必要になることもあるかもしれないから」
文巻を返してもらいながら、神野は受け流す。そのとき、唐突に第三者が乱入した。
「どうもわたしの後釜は、君らしいね」
神野は振り向いて相手を見とめ、目礼した。
「伊予どの」
伊予は唇の端を上げて笑う。それから長身を屈めてわずかに一礼した。
「元服おめでとう」
「恐れ入ります」
今度は頭を下げる。大伴もそれに倣い、おどおどとお辞儀をした。かれは安殿や伊予のように―――この二人は我が強いのでしょっちゅう衝突しているのだ―――、どちらかというとポンポン言葉を投げつけてくるタイプは苦手である。伊予のほうもそれには気づいていて、あまり大伴には話しかけようとしない。
伊予は現在式部卿(しきぶのかみ)という地位にある。先ほど伊予が「後釜」と言ったのはそのことだろう。式部省は文官の考課などを担当する部署で、大学寮などもここの管轄になる。式部卿はその長官である。
「二人とも、山のように文巻を抱えて、熱心なことだね。ああ、神野。昨夜の和琴は素晴らしかったよ。君は何をやっても宝玉のごとく光を放つともっぱらの評判だね」
「からかわれては困ります」
「からかうなんてとんでもない」
伊予は大仰に手を上げて見せた。
「今、主上は? 昨夜も少しお顔の色が優れぬご様子でしたが」
「淡路の陵(みささぎ)を整えるとかで、中納言どのと話しておられたな。―――まあ、いつも通りだよ」
「内麿(うちまろ)どのとですね」
「そういった方面にはお詳しいかただからな」
淡路の陵とは、早良親王の墓のことである。
桓武は早良のことには相変わらず神経質で、「祟り」を避けようと寺を建立してり、淡路に僧を派遣したりと手を尽くしている。
遷都を行ってもなお逃れることの出来ぬ、怨霊への恐怖―――
そこにうまくつけこんで、近年急速に桓武の信頼を得てきているのが藤原内麿である。昨年までは参議と共に陰陽頭(おんみょうのとう)を兼ねていた男だ。年齢は現在四十四歳。政治的野心をうまく内に包み込んで、抜け目なく立ち回る内麿という男には、「老練」という形容詞がまさにぴったりである。
そんな構図を、神野は肌で感じ取っていた。
伊予がどう感じているのかは、よく判らない。彼はそれ以上こだわる様子はなく、滑らかな口調で言った。
「まあ、君は文章に長けているから、式部卿よりはどちらかというと中務卿(なかつかさのかみ)かな。―――ああ、なるほど。それに備えての勉強か」
「そのようなつもりではありませんが―――」
「そうかい?」
「わたしはまだ、元服したばかりの若輩の身ですから。―――そんな先のことは」
「これは謙遜したものだ」
伊予は肩を竦め、
「じゃ、仕事の途中だから、わたしはこれで」
と手を振って、すたすたと立ち去っていった。
神野と大伴はどちらからともなく顔を見合わせ、苦笑した。
あの人は、苦手だな。
口に出さずとも、雰囲気だけでそれは伝わった。
「さて。じゃあわたしも行こうかな」
「そうですね。わたしも戻ります」
手を振り合い、二人はそれぞれの方向に歩き出した。
☆
早足で、神野は歩いた。
元服の前まで、神野は伊予の母、藤原吉子の下にいた。それは、あまり居心地のよい生活であったとはいえない。
伊予にしてみれば、自分よりも年下の神野が、皇后腹、また東宮と同腹ということで重んじられるのは癪でもあり、しっかし表立って対立するのも不都合―――ということで、実にさりげなく、しかしはっきりと神野を疎んじた。
そして吉子は伊予を溺愛している。居心地がよいはずがない。
だがそのことを、ほとんどの人間は―――恐らく父桓武でさえ、気づいてはいないだろう。
神野はもう幼い頃のように、闇雲に怯えてはいない。いつの頃からか、むしろその恐怖の正体を、そして自分が投げ込まれている渦の正体を、息をひそめるようにして見定めようとするようになった。人々の思惑の渦の、その只中に立って。
自己主張というものを、神野はほとんどすることはなかった。状況を変えることよりも、状況を見つめ、その中で身を処すことのほうを選んだのである。その静かすぎるほどの落ち着きぶりのせいで、容姿はどちらかというと小柄で華奢な少年らしさを見せているのに、神野と接した者は、ときに大人と接しているかのような錯覚を覚えることさえあった。
そして楽や書、詩や学問といった様々な分野で神野がその天分を発揮していることもあって、
「神童」
と噂され、賞賛されることも数知れない。
だが、神野が楽や詩といった芸術を学ぶのは、そんな声が聞きたいからではない。むしろ、それは煩わしいものでしかなかった。神野にとってはそれらが、周囲の思惑から離れて心を遊ばせることが出来る、唯一の自由の地だからこそなのである。
そして、神野の感覚は研ぎ澄まされた。
幸か不幸か―――周囲の「渦」に対してさえも。
☆
御書所というところには、一種独特の雰囲気がある。鼻先をくすぐる埃っぽいような書物の香りの中を、学生(がくしょう)や博士、またちらほらと殿上人(てんじょうびと)らが行き来する。目的は楽しみのためであったり、あるいは仕事上の調べものであったり様々だ。隅のほうで小声で話している者もある。その中のひとりが、神野に気づき、場を離れて歩み寄ってきた。
管理人のひとり、小野岑守(みねもり)だった。年は二十一歳で、大学寮で学ぶ優秀な学生である。御書所には、若干そうした学生の管理人がいる。常連の神野とは顔見知りだ。
「この度は、ご元服とご結婚、おめでとうございます」
やわらかな物腰で、岑守は頭を下げた。穏やかな雰囲気の青年である。
昨日から今日までだけで、その言葉をかけられるのは一体何度目だか判らないが、神野はやはり辛抱強く礼を言った。
「ありがとう」
作品名:挽歌 - 小説 嵯峨天皇 - 第一部 作家名:深川ひろみ