妖
「タケルさん、里見浩太朗と北大路欣也だったらどちらがお好き?」
「そりゃぁ北大路欣也だよ。お前は?」
「里見浩太朗」
「黄門様か」
「長七郎様ですよ」
飼い猫のミケの顔が、最近そういえば手拭いをかぶった獺の絵の、あの顔に似てきたな、と思っていたら、知らないうちに猫又になっていたようだ。ようだ、というのは、うちのミケは短尾だからだ。生まれつきだろう。尾が長ければ二股になればそれとすぐにわかっただろうが、ポンポンのような塊が申し分け程度に尻にくっついている、あんな毛糸玉のような尾では割れているのかどうかはわからない。
ので、俺は正確にはいつミケが猫又になったのか知らない。
以来、ミケは人語を喋るようになった。以前からおしゃべりな猫だったので、人語も流暢に、そしてひっきりなしに喋っている。俺が大学へ行っている時は誰を相手に話しているのだろうと思ったら、心配するコトはない、この間帰ってきて見たら独り言を言っていた。つくづく人間臭い。
先年、ミケを子供のように可愛がっていた祖母が亡くなって、それがひどく悲しかったのだろう、ミケはいっとき全く食べ物を受け付けなくなった。ガリガリに痩せたミケを見て、俺も含め家人はみな、ミケはもうダメだろう、彼岸で祖母が呼んでいるのだろうと言いあったが、痩せて尖った風貌に衰えぬ眼光をたたえたミケは、死ぬどころか一種異様な力を身に纏い、妖になった。妖になったミケは、ダメ、どころか、ますます元気で、食べ物をちっとも受付ないのは相変わらずのガリガリに痩せた体なのに、若い頃のように飛んだり跳ねたり喋ったりしている。霞でも食っているのだろうか。
「最近はいい役者がいませんよね」
「村上弘明はどう?」
「あたしはああいう男は好きませんねェ」
「いいなと思うと歌舞伎役者ばっかりでね」
祖母の猫だっただけあって話すことが年寄り染みている。しかしミケとこんな会話をしている俺だって筋金入りのおばあちゃん子だ。
ミケが日頃出入りするのは、その祖母が生前使っていた部屋で、それ以外の時はたいてい外に出ている。祖母が死んだからではなく、前々から半野良のような飼い方だったのだ。今では祖母の部屋に出入りするのは、昔からここに入り浸ってばかりいたおばあちゃん子の俺くらいで、だから自ずとミケの話相手も俺くらいらしい。
生前のまま、ほぼ何も手をつけていない祖母の部屋で、食後のTVを見ながらミケを相手にお喋りするのが最近の日課になった。
「な、ミケ」
「なんでしょう」
「妖になるってどんなカンジ?」
あぐらをかいた俺の隣にちんまり座るミケの、耳の先あたりを見下ろして聞く。
TV番組はエヌエチケーの金曜時代劇。時代考証がなっているとかなっていないとかで、ミケは気に入っているらしいが、派手な立ち回りがないので俺はそう好きじゃない。
「どうってこたありませんよ。あたしの言うことがタケルさんにもわかるようになったくらいで」
「なんか術とか使えたりしないの?」
そう聞くとミケは呆れたような目で俺を見上げ、
「あと百年くらいこうしてたらそれもできるんじゃないですかね」
と言った。なるほど、妖と言ってもまだまだ口がきけるくらいのものらしい。
「妖の世界は奥が深いんだなぁ」
「まぁあたしもよくは知りませんが。なんせ新人ですから」
「そういうものか。でも、あと百年くらいお前なら大丈夫じゃない」
「そうでしょうか」
「今の、え〜、5倍くらいだろ?」
「5倍も、ですよ」
「だって命が九つあるんだろ?」
「このお宅に拾っていただくまでに一つ落としてまして」
「そうなの?」
「ええ、ガキの時分に」
「じゃぁ、あと…」
「あと、二件隣のクロと喧嘩したときに一つ、それからその時の傷が元で大病いたしましたでしょう? それで一つ」
「ってことは残りは…」
「妖しになるのに一つつかってますから」
「五つ、か」
そう呟くとミケは爛々とした目をクルリと光らせて、俺を見て笑った。
「だからそう簡単じゃァないんですよ」
俺は肩をすくめて、ミケの頭をそっと撫でた。もともと毛の薄い額は、今ではまばらにしか毛がない。青白い皮膚に直に触れる。ここは白地に、黒い斑があった。右の耳の先はクロと喧嘩したときに噛み切られて、縁がギザギザになっている。それも今ではギザギザと言うよりぼろぼろだ。
別に術をつかうミケが見たいワケではないが、そのくらい立派な妖になったあかつきには、姿もそれなりに立派な貫禄のあるものになるのではないか。ちょっと、そう思ったからだ。
気持ちよさそうにあごを伸ばすミケの首筋を撫でる。緩やかに熱を発する薄い皮膚。パサついた艶のない毛並み。
ガリガリの体躯は、艶のない毛皮の上から、尖った脊柱やゴツゴツとしたあばらが浮き出る。
このみてくれがどうにかなるかと思ったからだ。
なにしろ若い頃のミケは、近所でも評判の美猫。今の姿にミケは全く頓着していないように見えるが、それでもミケも女だ、気になるだろう。
「あたしが術を使えるようになったら、なにかタケルさんのためにつかいますよ」
ゴロゴロと鳴らす喉の音に、ブツブツという空気が混じる。昔はそれこそ鳩のようにクルクルと喉を鳴らしたものだけれど。
「ホント? うれしいな」
「でも、あたしに付き合ってっとタケルさんまで妖しになってしまうかもしれませんよ」
百年ですからねェ……と撫でられ目を細めたまま呟く。
「それも悪くないなぁ……」
「酔狂」
「ますます悪くない」
タケルさんは旗本退屈男がお好きですからねェ……とミケが呟く。
ゴロゴロ。ブツブツ。
俺はミケを撫でていた手をとめ、立ち上がって部屋を出ると、台所へ行き卓上の今日来ていた郵便物の中から一枚の葉書を手にした。
祖母の部屋に戻ると、ミケは早速俺が退いた後の座布団にくるっと丸まって背中の毛づくろいなんぞしている。
「あのさぁミケ」
「はいはいなんでしょう」
「獣医さんからお前のとこに葉書来てたよ」
「……」
ぴくりとミケの動きが止まる。
「秋の予防接種だろ」
「しなきゃダメですかねぇ?」
「どうだろう、なぁ?」
毎年動物病院で繰り広げられる、気性の荒いミケとそれに負けずに立ち上がる勇猛果敢な獣医師さんの壮絶なバトルは、秋の予防接種シーズンの風物詩だ。病院としては迷惑な客だが、それでも獣医師として予防接種は励行する、獣医師さんの努力と勇気には頭の下がる思いである。とはいえ、
「この世ならぬものになってしまったのですけれど……」
「って、言っとく? 獣医さんに」
「タケルさんが不審がられてしまいますよぅ」
「だよなぁ……」
今年の予防接種のお誘いは、無視を決め込むコトに決まった。
「そりゃぁ北大路欣也だよ。お前は?」
「里見浩太朗」
「黄門様か」
「長七郎様ですよ」
飼い猫のミケの顔が、最近そういえば手拭いをかぶった獺の絵の、あの顔に似てきたな、と思っていたら、知らないうちに猫又になっていたようだ。ようだ、というのは、うちのミケは短尾だからだ。生まれつきだろう。尾が長ければ二股になればそれとすぐにわかっただろうが、ポンポンのような塊が申し分け程度に尻にくっついている、あんな毛糸玉のような尾では割れているのかどうかはわからない。
ので、俺は正確にはいつミケが猫又になったのか知らない。
以来、ミケは人語を喋るようになった。以前からおしゃべりな猫だったので、人語も流暢に、そしてひっきりなしに喋っている。俺が大学へ行っている時は誰を相手に話しているのだろうと思ったら、心配するコトはない、この間帰ってきて見たら独り言を言っていた。つくづく人間臭い。
先年、ミケを子供のように可愛がっていた祖母が亡くなって、それがひどく悲しかったのだろう、ミケはいっとき全く食べ物を受け付けなくなった。ガリガリに痩せたミケを見て、俺も含め家人はみな、ミケはもうダメだろう、彼岸で祖母が呼んでいるのだろうと言いあったが、痩せて尖った風貌に衰えぬ眼光をたたえたミケは、死ぬどころか一種異様な力を身に纏い、妖になった。妖になったミケは、ダメ、どころか、ますます元気で、食べ物をちっとも受付ないのは相変わらずのガリガリに痩せた体なのに、若い頃のように飛んだり跳ねたり喋ったりしている。霞でも食っているのだろうか。
「最近はいい役者がいませんよね」
「村上弘明はどう?」
「あたしはああいう男は好きませんねェ」
「いいなと思うと歌舞伎役者ばっかりでね」
祖母の猫だっただけあって話すことが年寄り染みている。しかしミケとこんな会話をしている俺だって筋金入りのおばあちゃん子だ。
ミケが日頃出入りするのは、その祖母が生前使っていた部屋で、それ以外の時はたいてい外に出ている。祖母が死んだからではなく、前々から半野良のような飼い方だったのだ。今では祖母の部屋に出入りするのは、昔からここに入り浸ってばかりいたおばあちゃん子の俺くらいで、だから自ずとミケの話相手も俺くらいらしい。
生前のまま、ほぼ何も手をつけていない祖母の部屋で、食後のTVを見ながらミケを相手にお喋りするのが最近の日課になった。
「な、ミケ」
「なんでしょう」
「妖になるってどんなカンジ?」
あぐらをかいた俺の隣にちんまり座るミケの、耳の先あたりを見下ろして聞く。
TV番組はエヌエチケーの金曜時代劇。時代考証がなっているとかなっていないとかで、ミケは気に入っているらしいが、派手な立ち回りがないので俺はそう好きじゃない。
「どうってこたありませんよ。あたしの言うことがタケルさんにもわかるようになったくらいで」
「なんか術とか使えたりしないの?」
そう聞くとミケは呆れたような目で俺を見上げ、
「あと百年くらいこうしてたらそれもできるんじゃないですかね」
と言った。なるほど、妖と言ってもまだまだ口がきけるくらいのものらしい。
「妖の世界は奥が深いんだなぁ」
「まぁあたしもよくは知りませんが。なんせ新人ですから」
「そういうものか。でも、あと百年くらいお前なら大丈夫じゃない」
「そうでしょうか」
「今の、え〜、5倍くらいだろ?」
「5倍も、ですよ」
「だって命が九つあるんだろ?」
「このお宅に拾っていただくまでに一つ落としてまして」
「そうなの?」
「ええ、ガキの時分に」
「じゃぁ、あと…」
「あと、二件隣のクロと喧嘩したときに一つ、それからその時の傷が元で大病いたしましたでしょう? それで一つ」
「ってことは残りは…」
「妖しになるのに一つつかってますから」
「五つ、か」
そう呟くとミケは爛々とした目をクルリと光らせて、俺を見て笑った。
「だからそう簡単じゃァないんですよ」
俺は肩をすくめて、ミケの頭をそっと撫でた。もともと毛の薄い額は、今ではまばらにしか毛がない。青白い皮膚に直に触れる。ここは白地に、黒い斑があった。右の耳の先はクロと喧嘩したときに噛み切られて、縁がギザギザになっている。それも今ではギザギザと言うよりぼろぼろだ。
別に術をつかうミケが見たいワケではないが、そのくらい立派な妖になったあかつきには、姿もそれなりに立派な貫禄のあるものになるのではないか。ちょっと、そう思ったからだ。
気持ちよさそうにあごを伸ばすミケの首筋を撫でる。緩やかに熱を発する薄い皮膚。パサついた艶のない毛並み。
ガリガリの体躯は、艶のない毛皮の上から、尖った脊柱やゴツゴツとしたあばらが浮き出る。
このみてくれがどうにかなるかと思ったからだ。
なにしろ若い頃のミケは、近所でも評判の美猫。今の姿にミケは全く頓着していないように見えるが、それでもミケも女だ、気になるだろう。
「あたしが術を使えるようになったら、なにかタケルさんのためにつかいますよ」
ゴロゴロと鳴らす喉の音に、ブツブツという空気が混じる。昔はそれこそ鳩のようにクルクルと喉を鳴らしたものだけれど。
「ホント? うれしいな」
「でも、あたしに付き合ってっとタケルさんまで妖しになってしまうかもしれませんよ」
百年ですからねェ……と撫でられ目を細めたまま呟く。
「それも悪くないなぁ……」
「酔狂」
「ますます悪くない」
タケルさんは旗本退屈男がお好きですからねェ……とミケが呟く。
ゴロゴロ。ブツブツ。
俺はミケを撫でていた手をとめ、立ち上がって部屋を出ると、台所へ行き卓上の今日来ていた郵便物の中から一枚の葉書を手にした。
祖母の部屋に戻ると、ミケは早速俺が退いた後の座布団にくるっと丸まって背中の毛づくろいなんぞしている。
「あのさぁミケ」
「はいはいなんでしょう」
「獣医さんからお前のとこに葉書来てたよ」
「……」
ぴくりとミケの動きが止まる。
「秋の予防接種だろ」
「しなきゃダメですかねぇ?」
「どうだろう、なぁ?」
毎年動物病院で繰り広げられる、気性の荒いミケとそれに負けずに立ち上がる勇猛果敢な獣医師さんの壮絶なバトルは、秋の予防接種シーズンの風物詩だ。病院としては迷惑な客だが、それでも獣医師として予防接種は励行する、獣医師さんの努力と勇気には頭の下がる思いである。とはいえ、
「この世ならぬものになってしまったのですけれど……」
「って、言っとく? 獣医さんに」
「タケルさんが不審がられてしまいますよぅ」
「だよなぁ……」
今年の予防接種のお誘いは、無視を決め込むコトに決まった。