春雨 03
「先輩に言われた時、胸にずしっときたんです。私はあの人のことどうしても忘れられないと思ってたけど、でもそれって私の思いこみだけなのかもしれないって思いました。それでいつまでも落ち込んで、みんなに迷惑かけちゃって、情けないですよね。先輩はそれに気付いて、私にそう言ってくれたんですよね。それなのに、私その言葉で辛くなっちゃって、あの後変じゃなかったですか? 折角私のために言ってくれたのに、逆に先輩に不愉快な思いさせちゃったんじゃないかって…」
「おい、こらちょっと待てって」
動揺していたせいか、いつになく彼女が饒舌なせいか、つい止めるのが遅れしまった。慌てて止めると、彼女は大人しくなる。まさか、泣いてない、よな?
「あれは、そういうつもりで言ったんじゃないんだよ。それに誰が不愉快な思いしたって?」
「だって、あの後私変だったじゃないですか?」
「そうか? 俺には全然普通に見えたけど?」
しばしの沈黙。
「…っじゃあ、私が勝手に落ち込んで勝手に謝ってただけってことですか?」
電話の向こうから聞こえてきたのは何とも情けない声だった。
「なんか間抜けじゃないですかー。はあ」
普段の俺だったらそこで一緒に笑い飛ばしていたのだろうけど。
「すまん。あの言葉をそんな風に取られるとは思わなかったんだ」
「ああ、いえ。今回は私が勝手に解釈しちゃっただけですから、気にしないで下さい」
「あれは1つの考え方だよ。それにお前が辛いって思うのは自然なことで誰もうっとうしく思ってなんかないよ。あの台詞は…多分、自分自身に言ったんだ」
つい、ぽろっと本音を言ってしまった。
電話の向こうは静かだ。彼女はどんな気持ちで今の台詞を聞いたのだろうか?
「なあ、美智」
「はい、なんですか?」
落ち着いた声。もうさっきまでの泣きそうな声ではなかった。
「俺さあ、昔付き合ってた女がいたんだ」
「はい」
「でもそいつは他の男が好きだったんだ」
「…はい」
「結局俺たちはうまく行かなかった。最後に謝られたよ。努力したけどやっぱり俺の事は好きになれなかったって」
俺は空を見上げた。いつか彼女と一緒に見上げた星空。あの日と同じ様な満点の星空が、空に広がっていた。別れの時もこんな星空の下で、泣きながら謝られたっけ。
「俺は中途半端な気持ちのままで、あれ以来誰も好きになれないんだ。いつまでもあんな女に執着してる自分が馬鹿だと思うよ。あの時思ったんだ『いつまであいつに執着してるんだ』って。だからあれは自分自身に言ったんだ。
お前見てるとほっとけないのは、それがあるからかな。いつかの自分と重なるんだ。俺はさ、お前の気持ちが分かるよ、なんてこと言うつもりはないけどさ。でも苦しんでるのは分かるから、もし辛くなったら遠慮なく頼れよ。
って、さっきみたいに逆にお前のこと傷つけるようなことを言っちゃう時もあるんだけどな」
最後はつい、冗談ぽく締めてしまった。我ながら今日こんなことを言うはめになるとは思わなかった。やっぱり今日は酔ってるのかもしれない。
「おい、美智、聞いてるか?」
すっかりおとなしくなってしまった電話の向こうの相手に呼びかける。まさか、人にこんな恥ずかしい台詞を言わせておいて、聞いてなかったなんてことはないだろうな?
「…聞いてます」
「ああ、そっか」
それきり会話が続かない。どちらも何か言いたくて、でも何も言えなくて言葉に詰まっているようだった。
しばらくして、美智が口を開いた。
「先輩、私実はいつかサークルはやめようかと思ってたんです」
「ああ」
何となく、彼女はいつか止めるかも、とは思っていた。以前に冗談で『来なかったら家まで押しかける』と言ったが、あの時はそれが分かっていたから、あんなことを言ってしまったのかもしれない。
「でも絶対に止めません。だから見てて下さい」
「は?」
その台詞だけでは、いったい何を言い出したのか分からなかった。
「私、絶対に片桐先輩のこと克服して見せます。そしたら先輩もその彼女の事にこだわらずに新しい恋を見つけて幸せになって下さい。その為に私もがんばります」
突然突飛なことを言い出す。彼女が片桐のことを克服したからといって俺自身とは全く関係ない。彼女があいつのことを克服したかなんて客観的に見て分かるものでもない。何よりがんばるたって、がんばってどうなるものでもないだろう。
でも、それでも、なんか面白そうだなと思った。
最初に美智とまともに喋ったのは彼女が怪我をした時だが、あの時にも思ったこと。
とにかく変なやつで、変に頑固で、意地っ張りで。
そんなこいつが面白いと、そう思った。
だから乗ってやってもいいかなと思った。
「ほう、じゃあ、お前が克服出来ない限りは俺は幸せになれない訳だな」
「…へ?」
そういう考えには至っていなかったのか、間抜けな声が聞こえてくる。こういう所はまだまだ甘い。
「ま、俺の幸せがかかってるんだ、絶対に克服しろよ。期限は…そうだなー」
「期限なんてあるんですか?!」
「あたりまえだろ。何十年も経って俺がじいさんになってから『克服しました』って言われたって困るだろ」
「え? え~と」
真剣に困ったような声に、今度こそ、吹き出してしまった。
「先輩! またからかったんですかー! 人が真面目に話してるのに!」
案の定、怒ったような拗ねた様な声が聞こえてくる。
いい加減、俺が笑うタイミングを推し量ってもらえないだろうか。こう言われるとますます笑いたくなるのに。それに馬鹿にしているわけでもないのだが。まあ、そう思われるのも仕方ないか。
「お前面白すぎ! 分かったよ。その話乗ってやるから、絶対に克服しろよ」
「もう、嫌々なら乗らなくたっていいですよ。…あ! じゃあ、そろそろ切りますね」
そう言ったが早いが、彼女は突然焦った様に電話を切ってしまった。
せっかちな奴だ。もうちょっと冗談が分からなければこの世の中渡っていけないぞ。
俺はにやつく顔を押さえながら、帰途につく。
すると手にもったままの携帯電話が振動しだした。
「なんだ? 早速謝りの電話か?」
つぶやきながら携帯の液晶を見る。美智だと思ったその電話は、しかし全く別の人間からの着信を示していた。
『彩花』
それは先程美智に話した、俺を振った女の名前だった。