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まつやちかこ
まつやちかこ
novelistID. 11072
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『ココロの距離』幕間集

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『気分転換、もしくは休息の一日』-3

 本人が気づいているかどうかわからないが、何か言いたいことがある時、奈央子の口調はいつもより平坦になる。少なくとも彼女に関する限り、そういった言動と考えていることの関係に気づくようになってきた。そして先ほどのように視線をそらしがちな場合、「言いたいこと」がたいていは言いにくい内容であることも。
 椅子に座った時にも、奈央子はまだそんな様子だった。だがミルクをコーヒーに注ぎ終わるタイミングで「あのね」と声をかけてきた。聞きづらいが聞かないままでいるのも気になる、といった感じで。
 「変なこと聞くかもしれないけど、いいかな」
 彼女らしからぬ前置きに、内心ちょっとだけ身構える。
 「——珍しいこと言うな、なんだよ」
 「……デートの時に、いつも手をつなぎたいとかくっついて歩きたいとか——その、いちゃいちゃしたいとかって思ってたりする?」
 後半が恥じらうように小声になった質問に、思わずカップを倒しそうになった。奈央子をあらためて見ると、やけに気合いの入った表情になっている。
 妙な間が生まれそうになり、打ち消すためにコーヒーを口に付けたらまだ苦かった。砂糖がちゃんと溶けていなかったらしい。考えを言葉にまとめるための時間稼ぎも含めて、マドラーで念入りにかき混ぜる。
 「……そりゃ、まあ。全然思ってないってったら嘘だけどさ。いちおう、おれだって男だし」
 彼女とその手の話をしたことはないから、正直、口には出しにくいものがあった。だからつい歯切れの悪い口調になるが、気持ちははっきりしている。
 間を置かずに「でも」と続けた。
 「今の感じで、別に不満はないけど? そういうことしたくなる時があんまないってだけだし、それが問題とは思ってないし。おまえもそうじゃないの」
 「……うん、そうなんだけど」
 そうだよな、と思う。彼女は見た目以上に、そういう方面には控えめで照れ屋だから。ならばなぜ、そんなことを聞くのだろう。
 奈央子が再び先ほどの仕草を繰り返す間、柊は首を傾げていた。すると、
 「その——さっきみたいなことって珍しいから、今まではなかったけど願望はあるのかなって」
 2つ目の質問はひどく気まずそうに発せられた。「だとしたら、我慢させてたのかなって思って」と続いた声は、先ほどよりもっと小さく、どこか申し訳なさそうでもあった。
「さっきみたいなこと」の内容を、5秒ほど考えて思い出す。「……あー」と応じたものの、今度はこちらが気まずくなってきた。目を伏せて、とっくに砂糖は溶けたコーヒーをまたかき混ぜ始める。マドラーの回転が不自然に速くなっていることを自覚しつつ。
 目を上げると、当然ながら奈央子が不安そうな顔をしている。……なんと説明すればいいものか。
 願望がゼロだったとは言わないが、先ほどに限っては、主たる理由は全然違ったから。
 「あれは、えーと——めちゃくちゃ眠かったから」
 「は?」
 とんでもない勘違いを聞いたように反応された。だがそれも当然だろう。柊はついに観念した。
 「……いや、いつもの調子で飲んだらアルコールの回りが速くてさ、ヤバいなと思って。ああでもしてないと、歩きながら寝れそうなぐらいだったから」
 「…………」
 奈央子は絶句してしまった。怒るべきなのか呆れるべきなのか、決めかねているような表情で。支える杖か棒代わりにされていたと言われればそうなるだろう。ましてや、彼女は悩んでいたのに——
 そう考えてからはっとして、奈央子をまじまじと見つめる。いくらか意外な思いで、思い浮かんだことを口にした。
 「——ひょっとして、それずっと悩んでたの、おれが寝てる間」
 言った途端、奈央子は目を見開き、さらに言葉をなくしたかのように唇を引き結ぶ。ふいと横を向いた顔が赤く見えるのは、オレンジがかった店内の照明のせいだけではない気がする。
 可愛い、と今日一番強い感情で思った。彼女は真面目だから、ひょっとしてと可能性を思いついてからずっと、そればかり考えていたのだろう。見当違いの方向とはいえ、柊に申し訳ないとまで思って。
 そっぽを向いたまま、表情も動きも固まった状態でいる奈央子の姿に、唐突に衝動が湧き起こるのを感じた。
 左手で膝をつかみ、強い感情で体が震えてくるのを抑えながら、テーブルに身を乗り出す。
 「……じゃ、ちょっとだけ希望言っていっかな」
 できるだけ声を低くひそめるのも、これから言う内容を気にすると同時に、声がうわずらないようにするためである。雰囲気の違いを感じてか、奈央子はやや緊張した面持ちでこちらを見た。
 「なに?」
 「今日、する気ない?」
 たぶん3秒ぐらい、沈黙があった。次いで爆発的な勢いで顔に血をのぼらせ、奈央子は飛びのいた。
 「……ばっ、な……こっ」
 バカ何言ってんのよこんなとこで、と言いたかったのだろう。だがうろたえるあまりろくに発音できていない。
 真っ赤な顔で口をぱくぱくさせる彼女の反応に、今度は急激に笑いがこみ上げた。すぐに口を押さえはしたが、肩の震えと表情はどうしても抑えきれない。
 「…………可愛すぎ」
 我慢しきれずにつぶやいた声が聞こえたらしく、奈央子の表情が一変した。一息にコーヒーを飲み干してからじろりと睨み、低い声音で宣言する。
 「それ以上笑うつもりなら、就活で休んだ分のノート貸さないからね」
 『学科が違うから専門は協力できないけど』と言って、今年度は自由履修でできるだけ同じ科目を取ってくれているのだった。え、と笑いを引っ込めた柊を置き去りに、奈央子は席を立って店を出ていく。
 さすがにまずいと思い、慌てて後を追った。おそろしいほどの早足で歩く奈央子に、駅方向へ十メートルほど進んだところで追いつく。
 「ちょ、待てって——ごめん、笑いすぎた」
 心の底から謝ったのだが、彼女はまだ憮然としている。
 「けどほんと、可愛かったから」
 と躊躇なく続けたのはかなり無意識だった。言ってから自分で少なからず驚き、奈央子はこれ以上ないほどに目を見張る。
 追いついた際につかんだ彼女の右手が、じわりと熱くなった気がした。息を吸い込み、手の力を少しだけ強める。
 「で、さっきの、マジなんだけど……だめ?」
 奈央子が息をのむ音が、確かに聞こえた。手と唇がかすかに震え、今にも泣くかもと思うほどに目が潤んでくる。
 うつむいてしまった彼女が、硬い声で「……疲れてるくせに」とつぶやくのも聞こえた。やっぱこんな流れじゃ拒否られるよな、と反省し、もう一度謝りかけた時。
 ふうっと息をついた彼女の口元が、笑みを形作ったことに気づいた。はっとして思わずのぞきこむ。
 「バカすぎる、あんた」と言った声は先ほどよりも大きい。だがその口調はなんだかやわらかくて、涙があふれそうな目をしながらも微笑みを浮かべている。そして奈央子は、手を強く握り返してきた。
 「え、…………いいの?」
 おそるおそる確認した柊に、奈央子ははっきりとうなずいてくれた。はにかみながらも嬉しそうな、とても可愛らしい笑顔で。

                             —終—