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まつやちかこ
まつやちかこ
novelistID. 11072
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『ココロの距離』幕間集

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『気分転換、もしくは休息の一日』



 寝過ごした上に、人身事故のせいで乗った電車が止まってしまった。停車して15分近く。今から動いても絶対に間に合わない。
 『わかった、急がなくていいから。焦ってあんたまで怪我とかしないでよ』
 奈央子(なおこ)はそう言ったが、今すぐにでも窓から外に出て、線路を走りたい心境だった。近頃疲れてるみたいだから気分転換しよう、と彼女が誘ってくれた今日のデートなのに、彼女を待たせるなんて。
 卒論の資料読みとエントリーシート記入の練習で徹夜するのは、近頃の日常になりつつある。だが昨夜ぐらいやめておくべきだった、と柊(しゅう)は心の底から思った。

 待ち合わせ場所を目前にして思わず立ち止まる。
 ターミナル駅の構内、各方面への改札へ続くコンコースの中央にある大きな柱時計。その周囲に置かれたベンチの一つに奈央子は座っていた。手にした新書サイズの本を一定時間真剣に見つめ、ページをめくることを繰り返している。
 同じベンチには他に誰も座っておらず、両隣にも人はいなかった。時計の真上に作られた窓から秋のやわらかい光が差し込み、彼女に降り注いでいる様は、一枚の絵のようだった。
 物心つく前から知っていて、付き合うようになってからも2年近く経つ。それなのにまだ時々、今のように彼女に見とれずにはいられない瞬間がある。
 清楚とか清純とか、今では使える場合も少なくなってしまったような表現が、奈央子にはこの上なく似合う。もともと美人だけど、20歳を過ぎたあたりからは、加速度が増したような勢いで綺麗になっている気がする。
 奈央子が「彼女」であることが信じられなくなるのはこういう時だ。こんなに綺麗で可愛い子が自分を好きでいてくれているなんて、何かの間違いではないのかとさえ思ってしまう。
 何かに気づいた様子で顔を上げた奈央子が、こちらを向いた。立ち上がりながら浮かべる微笑みは、本当に可愛らしくて――
 「なに、ぼーっとして。そんなに寝不足?」
 はっと我に返ると、真正面、30センチぐらいにまで奈央子が近づいてきていた。急に落ち着かない気分が襲ってくる。見とれていた、と正直に言うのは照れくさい。
 「え、いやその……今読んでたの何」
 質問と全く関係のない、しかも質問返しの発言に首を傾げられたが、まあいいかと思われたのか追及はされなかった。
 「般教の用語集。あんたも読んどく?」
 言いながら、本を目の高さに掲げる。教職志望の奈央子は、この春から教員採用試験対策の勉強を始めた。3年になるかならないかの時期で早すぎないかと言ったところ、
 『だってすごい範囲広いのよ。特に般教なんか、何が出るのか予測できないもの。遅くて後悔するより早い方がいいでしょ』
 と返された。般教、つまり一般教養分野は国語や社会系科目の知識、数学的計算問題にまで出題が及ぶらしい。全てを等しく勉強するには長い期間が必要に違いなく、真面目な彼女らしい正論である。
 そして、一般企業の筆記試験とも般教は無縁ではないから、勉強しておくべきなのは確かなのだが、
 「ん――まあ、そのうち貸してもらうかも」
 ついそう答えてしまう。正直、そこまでの余裕は時間的に持ちづらかった。それどころかサークルの先輩から、あるいは就職セミナーなどで聞かされる厳しい現状と就職活動の困難さに、早くもくじけそうになっている。
 だが負けるわけにはいかない。そんなふうに思うのは奈央子がいるからだ。彼女はまず間違いなく、来年の採用試験に合格するだろう。だから自分もせめて、新卒で就職しなければならない。でなければ……有り体に言えば、格好がつかないから。
 それに就職浪人などしようものなら、両親はともかく、姉はまた持ち前の毒舌で存分に攻撃してくるだろう。それだけは回避したい、と切実に思う。
 「そう? ちょっとずつでもやっといた方がいいわよ。さてと、20分の遅刻だから、今日はおごってあげるつもりだったけど2割払ってね」
 「あ、おれが全部出すから」
 予定通りに起きていれば事故に行き合わず、遅刻もしなかったのだから当然だ。だが奈央子は笑い、顔の目で手を振った。
 「いいって。バイト、就活で前ほど行けてないんでしょ。こないだ行った時の10%引き券もあるし……あ」
 しまった、というふうに口を押さえる奈央子に、柊は意外な思いで「え、行ったことあんの」と尋ねた。今日行く店は『おいしい店だとこないだ友達に教えてもらった』と聞いていたのである。
 上目遣いにこちらを見た奈央子は、何やらばつが悪そうな表情をしている。しばらくの沈黙の後「実はね」と、ためらいがちに口を開いた。
 「先週行ったの。くーちゃんと」
 奈央子だけが呼ぶ姉・公美(くみ)の愛称に、反射的に顔をしかめてしまった。
 「先週わたし、実家帰ったでしょ。家に戻る時にここで、くーちゃんが職場の人と飲み会行くとこに行き会わせて、そしたら就活の激励したげるって誘われて。わたしは、あんたも呼ぼうかなって電話しかけたんだけど、……『時間もったいないから』ってくーちゃんに携帯取られちゃって、そのまま引きずられてっちゃったから……嘘ついてごめん」
 小声で謝る奈央子を責める気は、柊にはかけらもなかった。彼女が、自分を気遣って隠していたのは察しがつくから。
 公美の、奈央子に対する猫可愛がりようと、柊への冷遇ぶりは子供の頃から変わっていない。相変わらずの姉の態度に納得しつつも、どうしてもいまだに気分の重さを感じてしまう――自分のそういう、トラウマ的な条件反射というか気持ちの弱さを奈央子もわかっているから、言わずにいたのだろう。
 今も彼女は、1ヶ所でやや言葉を濁した。公美が実際にはどんなふうに言ったのかは、容易に想像がつく。姉への反発心と、自分の情けなさへの憤りのような感情が、同時に湧きあがった。
 「やっぱ、今日の分おれが払うから」
 奈央子は表情を複雑そうにゆがめた。そんなふうに言うだろうと思っていた、と言いたげに。
 「じゃ、割り勘にしようよ。10%安くなるっていっても一人4千円近くするんだし、ね」
 奈央子のなだめるような提案にも、柊はきっぱり首を振る。意地になっている自覚はあったが、今は引きさがれない気持ちでいっぱいだった。


 ——向かいの席で、柊が爆睡している。
 オーダーバイキングのディナーを食べた中華料理店を出て、しばらく歩いてから入ったカフェ。席に着くなり『悪い、ちょっと寝かして』と言ってテーブルに突っ伏してしまったのだった。
 それから30分近く経過したが、彼が起きる気配はない。……相当寝不足なんだな、と用語集を閉じながら奈央子は思った。