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まつやちかこ
まつやちかこ
novelistID. 11072
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『ココロの距離』幕間集

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『桜、夕立ち、若葉の頃』-3

 4月終わりの朝、予鈴が鳴るまでにはまだ余裕のある時間。
 「おはよう、瀬尾さん。昨日借りた本返しとくね」
 「え、もう読んだんだ、早いなぁ。どうだった?」
 「おもしろかったよ。でも映画とはだいぶ違ってるんだね。特に途中の」
 と奈央子が言いかけたところで、横から割り込んでくる背の高い影。
 「なおこー、ちょっとここ教えてくんない?」
 「数学? ……ってあんた、ここ今日当たるって言われてたとこじゃないの。なんでやってないのよ」
 「忘れてたんだよ、バスケ部毎日遅いしさあ、思い出したの昨日寝る前だし」
 「じゃあくーちゃんに聞けばよかったじゃない」
 「冗談、姉貴に聞いたらなんて言われるか想像つくじゃん。自分の責任だっつって教えてくんねーよ」
 「……まあ、ね」
 その光景を思い出すように首を傾げ、頬に手を当てて奈央子はうなずく。柊の姉の名前が公美(くみ)で、子供の頃から妹みたいに可愛がられている奈央子が彼女を「くーちゃん」と呼んでいるということは、すでに聞いていた。
 「だからおまえにしか聞けないんだよー、頼むよ」
 「しょうがないわね、どこがわかんないの。え、ここ? だったらこの公式を使えばすぐじゃない」
 「あ、そっか、その手があったか。サンキュ」
 あからさまに安心した表情になり、そして来た時と同じように柊は唐突に去っていく。
 「……その手も何も、前の授業で習ったばっかりだっての、もう」
 彼が自分の席に戻るのを見ながら奈央子がぼそりと言う。親しくなってからの半月、こんなやり取りをほぼ毎日目にしている。彼女たちと同じ小学校だったクラスメイトによれば、その頃から日常茶飯事だった光景らしい。柊は決して頭が悪くはないのだけど忘れっぽすぎて困る、というのは奈央子の弁である。
 確かに、授業で出たことをその時間中に確認したりするような質問では、柊はちゃんと正しく答えている。理解力がないわけではないのだ。
 「真面目にやろうと思えば、できるだろうにね」
 「そう思うけど、面倒くさがってやろうとしないんだよね……それでどれだけわたしが迷惑してるか、全然わかってないし」
 はあ、と顔をしかめてため息をつくけれど、実は表情や言葉ほどに奈央子は迷惑がっていないんじゃないか、と彩乃は思っていた。それはもう、彼女と友達になって数日のうちに。
 親しくなってみると奈央子はとても気さくで、成績や外見の良さを鼻にかけるような、気取ったところはまったく持ち合わせていない。そんな彼女が、普段よりも厳しい物言いをするのは柊に対してだけで、口調まで姉が弟に対するようになる。
 それを指摘したら、奈央子自身は気がついていなかったようで、ちょっと沈黙してから「たぶんお姉さんの影響かな」と言っていた。羽村姉弟と生まれた時から付き合ってきた奈央子にとっては、彼らは影響力の大きな存在であるらしい。
 自分の席で問題を解いている柊を見る奈央子は、まだどこか心配そうな目をしている。出来が悪くて手こずるけどどうしても見捨てられない、と言っているかのようで、そういう様子はやはり姉っぽいなと思った。
 そういった、姉弟的な意識のない彩乃が見ても、羽村柊には放っておけないものを感じる。誰が見てもそうなのか、自分が彼を少し気にしているからなのか——そういうところも含めて好意を感じかけているからなのか、それはわからないが。
 そこまで考えて、ふと、もう一度奈央子を見た。
 なぜかさっきとは目に浮かぶ感情が違うように見えて、もやもやした気持ちになる。数秒の後、その靄が一気に晴れる想像に思い至った。
 「沢辺さん、もしかして」
 「え?」
 呼びかけに、夢から覚めたような表情で振り返る奈央子を見た瞬間、確信してしまった。だが口に出すことにはためらいを覚えた。
 「ごめん、何か言った?」
 今の呼びかけもまともに耳に入っていなかったらしい奈央子は、自分がどんな表情をしていたかも、きっと気づいていない——口元の優しい笑み、初めて目にするようなせつなげな眼差し。本当にかすかな表情だったから、よく見ていなければきっとわからなかった。
 けれど、見てしまったら気づかないわけにはいかない、そういう表情。
 「……瀬尾さん?」
 「ううん、ごめんね。なんでもない。それで、本の話だけど」
 わざと違う話題を振ったのは、確信しても、追及する気になれなかったから。少なくとも今は。
 奈央子は、まず間違いなく、柊が好きだ。幼なじみ、もしくは姉弟のような親愛以上の気持ちで。