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王子

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 どこからか風が吹いた。
 まだ明けきらぬうちの城内は暗く、裸の肩に巻き付けただけの上着の隙間から冷たい空気が忍び込んだ。兵舎から交代を告げるラッパが聞こえる。王子は踵を返すと足早に自室へ向かった。
 重い扉に手をかけたところで、すぐ脇に控えていた影に気付いた。
「何をしている」
 問いかけには応えず、その男は冷ややかに目を剥いた。
「今時分うろついていると亡霊と間違われるぞ」
 指だけで部屋に招き入れる。真っ暗な室内に男は苛ついた様子を隠そうともせず、灰を掻き回し火をおこした。
「あなたは?」
「マーテルのところへいっていた」
 上着を肩から落とす。振り向いた怪訝な顔に
「下女だ。料理番が使っている」
と付け足すと、男は小さく
「火遊び」
とだけ言った。
 それを聞き、王子は苦笑した。火遊びと言うには余りに熱に欠けている。マーテルはそう美しくも若くもないが、なにより自分の性の使い道を知った頃の彼の自由になる女といえば彼女だけだったのだ。
 柔らかな室内着に袖を通しながら、暖炉の脇に片膝ついたままの男に
「何の用だ」
と訊ねると男は立ち上がり
「手紙を預かっています」
と、円卓の上に白い封筒を滑らせた。
 ちらりと一瞥をくれ、その赤い封鑞に残る母の紋章を認めると、王子はそれを書物机に放り投げた。
 机の上にはいくつもの手紙が、開封されないままにうっすら埃をかぶっている。添えられた花々が傍で色褪せていた。受け取ってしまった以上、開封しないのが礼儀というものだ。返事を書く気など端からないのであれば。
 女親から女というものになってしまった母も、幼馴染みの若く美しい婚約者も、ただ彼は持て余すだけだった。
 もう王子が以前のようには庭の池の鴨をからかわなくなったことに、城の誰もが気付いていたが皆口にしなかった。
 城がひたひたと凍り始めている。王子はそれをただただ忌々しいと感じた。
「読まないのですか」
 厳しい声が飛んで、王子の鼻に反射的に皺が寄った。
「読んでどうする。後は叔父上が死ぬのを待つばかりだろう」
 投げやりな物言いに、男の口元がひやりと引き締まる。
 ぱちりと木の皮がはぜる音がした。暖炉の灯りしかない部屋はほとんど影に沈み、壁にかけられたタペストリーの模様が闇に溶けている。どこもかしこも、それこそ隠し部屋の在り処まで知り尽くした城だったが、今はそこかしこから冷気が発されていた。
「Seine Konigliche Hoh...」
王子、
と男が言いかけたのを、王子は潰れたカエルのようなしかめっ面で遮った。
「アル」
 男の目がすっと細められる。が彼は続けた。
「アルブレヒトだ、兄さん」
 そして強請りのようにうっすら笑った。男はうんざりしたように頭を振ると、それはできないと微かに呟いた。
「私のことはグレゴールとお呼び下さい」
 洗練された行儀の悪さで鞣革のブーツを脱ぎ捨てながら、何度も繰り返されたやり取りに王子は鼻白んだ。
「母は死にました。私に気を使うことはありません」
 男は取りなすように続けたがそれは王子のアイスブルーの目をさらに冷ややかにさせただけだった。
「君の母上は」
 長椅子にだらしなく足を乗せて王子は呟いた。
「君の母上は美しかったな」
 事実、王子が敬愛し、そこからもたらされた愛情をなんのてらいもなく受け取ることができた、亡き乳母殿はその唯一だった。
 彼女の思い出は春の日向と、初夏のバラと、秋の乾いた落葉の匂いがする。
 もし完璧な幸福が存在するとしたら、それは自分のこの記憶に他ならないと王子は思った。
 王子は伏せていた瞼をそっと持ち上げて、マントルピースに片手をかけた乳兄弟の姿をうかがった。母親譲りの黒い瞳に暖炉の炎を映している兄は、彼の二番目の幸福だった。
 彼はこの二つの幸福さえ握っていられれば良かった。城の兵たちに密やかに伝わる湿った噂も、女になった母の芝居がかった弁解も、彼は興味がなかった。遅かれ早かれこの頭に戴くだろう思っていた王冠の重みも、さしあたってこの二つがあるならばさした苦痛でもあるまいと高をくくっていた。
「…グレゴール」
「なんでしょう」
 白く秀でた額が王子に向けられた。
 王子は炎の色に半身照らされている彼の最期の幸福の塊をしげしげと見つめて押し黙った。黒い瞳。黒い髪。
 急に沈黙した王子から、男はそっと目をそらす。
 自分が傍においておきたがらなければ、今頃はどこかそれなりの大きさの教区の司教になっていただろう。
 黒い瞳は思慮深さを、高い鼻梁は多少の気難しさを、醜く歪められたことのない唇はその内なる芯の透明さを、語らずして伝えた。
 聡明で優しい兄は昔も今でも彼の自慢だ。
 兄は冬の初めの雪だった。銀色の沈黙、静謐の聖堂だった。
 その額の、今や彼等にしか分からない小さな傷を自分が付けた日のことが、ふいに王子の脳裏を過った。一瞬だけ過って、かき消えた。兄が彼を名前で呼ばなくなったのはいつからだったろう。確かその頃ではなかったか。じいわりと、そして唐突に懐かしさが、ついぞ憶えたことのない激しさで彼の心に吹き付けた。
 兄上。兄上。
 そう呼んだ日を忘れなければそれでいい。
 この男は自分のためならあっさり己の命を投げ出す。それは全く疑いもないことだった。
 それは時に彼を恍惚とさせ、そして絶望させた。
 そうしていて、男は彼に、自分のために命を捨てることを許さなかった。
 酷い男だと王子は思った。
 男の黒い瞳がゆるりと動いて、王子の目を射た。微かに寄せられた眉根に、腹の内でほぼかたまった諦観がうっかり溶けだしそうで、王子は思わずぎくりとした。男の黒い瞳はきっとこの世の全ての色を足した果ての黒だ、全ての色を受け入れるその果ての黒だ。
 王子はその瞳から逃れるよう顔を背け
「今からでも間に合わないことはないだろう。空いている教区を探させよう。すぐに発て」
 無駄だと分かっていながら言った。言葉が意図した通り素っ気なく乾いて聞こえたかだけが気になった。
 男は間髪入れず
「莫迦なことを」
と呟いた。


 鼻は狼のように
 足は猫のように
 目は鷹のように
 そして心は兎のように。


 若木のような手足も、母を怒らせないだけの礼儀も青年らしい稚気も自嘲も、涼やかなアイスブルーの瞳も、馬も剣も、おおよそありとあらゆるものを袖の刺繍程に無造作に身に着けていた王子も、ただ一つ、野心は持たずにここまで来た。他の何もかもを持っているが故にそれは彼に必要ではなかったし、何より彼が身を滅ぼさないために持つべきでなかった。
 そうやって遠ざけてきたのにここへきて、王子の鼻は血を嗅いだ。
 鴨狩りへ行く時に庭番が連れてくる猟犬たちの、肉料理が出た日のマーテルの肌の、母が貞淑な王妃から女になった日の、血の臭いだ。
 あるときは不意に、ある時はひたひたと気配だけを漂わせ、それは彼にまとわりつき始めた。
 弔いは言祝ぎに、禍は福に、容易に変容した。
作品名:王子 作家名:森林