高校生殺人事件 警視庁・香川美優と雪菜の事件簿(一)
第一章 事件
東京都渋谷、道玄坂。五月十一日夕方。あたりはうす暗くなってきた。ゴールデンウイークをあけて、さすがに道行く人の服装が夏の気配を帯びてきた。気の早い人は、早くもTシャツ姿で若さを強調している。街路樹の緑が一段と濃くなった。都会に目いっぱい自然を感じる季節だ。年々夏の訪れが早くなったように感じる。春が来たと思ったら、いきなり初夏が来る。
スクランブル交差点で、高校生が信号が変わるのを待っている。信号を渡り、商業ビルのところを左に取っていくと、ファーストフード店があった。高校生は店に入ったが、誰もいないのに気づいた。連絡では、「いつもの店」だと言っていたのに。オレンジ・ジュースを注文して、結局三十分も待った。
「くそ!面白くない!」
と、言って、高校生は舌打ちをした。
「俺は、仲間を抜ける」
と、言ったとたんにこれだ。あいつらは、悪い奴らだという認識はある。万引きグループと付き合っていることは、父親には話していないが、大方知っているだろう。悪さをしているところを、姉に偶然見つかってしまったからだ。
だが奴らとは、ここでおさらばだ。来年は高校受験もある。姉の出た都立高校に入るように、家族は口うるさく言う。いつでも、わが身を案じるのが先でなければ生きていけない。受験は人生の通過儀礼だ。いくら通過儀礼だとはいっても、これをクリアしないと、先が見えない。いくら、不良仲間と付き合っていても、それくらいのことは分かる。
人がしている悪いことを止めても何にもならない。遊児には、正義感ぶって興ざめた経験があった。だからといって、率先してやってもいいことにはならないが。昔を思い出したら、余計にイラついてきた。中学校の学級委員が万引きをするのを目撃して、ずいぶんと説教したことがある。しかし、無駄だった。
遊児は店を出た。もと来た道を引き返そうかと思ったが、頭に血が上っていて、あの雑踏が耐えられそうもなかったので、わざと人通りのない道を選んだ。悔しさがこみあげてきて、後ろからつけている足音には気がつかなかった。着実に距離は縮まっていく。ふっと光をさえぎる影が見えた。振り返ろうとした瞬間、ドンという音が聞こえた。
一瞬何が起きたか分からなかった。痛みが全身を突き抜ける。遊児はその場に倒れこんだ。影に見覚えがあったが、それは路地裏に消えた。遊児は、まだある命に全力を振り絞って、
「助けて」
と、叫んだ。誰も来ないのに気づくと、血に染まった指で、犯人を地面に書こうとして、息絶えた。一人、二人と人が集まり、やがて大きな人垣が出来た。救急車が、次いで警視庁のパトカーが到着した。現場は騒然となった。初動捜査班に遅れて、担当の女性刑事が到着した。
「後ろから一突きで、これが致命傷です。持っていた生徒手帳がこれです」
と、言って、担当者が生徒手帳を女性刑事に手渡した。それには、
「東京都立一宮高等学校 西岡遊児」
とあった。女性刑事は、香川美優といった。殺人事件として、捜査は開始された。
第二章 半居候
「学校って帰るのもめんどうくさいな」
新名雪菜は、通りを歩きながら呟いた。公園に植えてある、生命力溢れた真っ赤なバラの横を駆け抜けていった。公園の中を通れば、いくぶん近道になる。雪菜は学校があまり好きではなかった。同級生に溶け込むことが、個性を奪われるようでいやだった。かといって、何でもつっぱねるのはイメージとして古くさくて、やたら反抗するには抵抗がある。
しかし、理由はそれだけではなかった。教師や生徒を内心揶揄していたせいもある。彼らは、ただ学校という日常生活の中でそれぞれの役割を演じているに過ぎないと、漠然と感じていた。あらかじめ筋書きの出来た演劇を見るのは好きではなかった。
親が堅物だと子供は大変だと、雪菜は思う。自分の目から見て明らかに間違ったことや、微妙に自分と合わない考えを押し付けられ混乱すると、自分の中ですっきりいくように修正していくのが、あとあと面倒だ。
母親は会社で働いていて忙しく、父親はといえば警察の官僚をしていて、かまってもらった経験はないことはないが、家族旅行などは縁がなかった。それほどひどい家庭環境でないが、雪菜はわざと家庭に背を向けていた。そうすることで安心を得ていた。感情を抑えたり別なほうに向けたりと、抑制術を学ばなくてすむ分、兄弟がいなくて楽だとさえ思っていた。幼い頃、親の愛情を充分に受けることなく育ったせいか、少々ひねくれていた。
家族に対しては、心と感情がなくなれば、イラつかなくていい。内面が屈折していると、友人に心を許せないことや、学生生活への意欲のなさといった、目の前の問題には、思考がなかなか辿り着けない。
雪菜は中学校に進学した頃から、美優の家に出入りするようになった。香川美優は警視庁の警部である。警視総監である雪菜の父が、
「息子の面倒を見てくれ」
と、命令すると、美優は何でもないように素直に受け入れた。少なくとも雪菜にはそう見えたので、雪菜は逃げ道が見つかったことにし、流れに任せていた。
彼女とは、仲は良かったし、雪菜は彼女の家に出入りするようになってから、家事も手伝った。美優がご飯を作る時間を仕事に当てたかったからだ。家に居たくない思いと、元来の器用さが手伝って、いつのまにか雪菜は家事をこなすようになっていた。学校から帰ったら勉強道具と本をもって、電車に乗って美優のマンションに行った。学校の帰りに寄ることもあった。美優が帰ってくるまでにご飯の支度をして、美優が食事を終ってからは、一日にあったことを話して、テレビを見て、電車に乗って自宅に戻った。
雪菜は、美優の馴れ合いを嫌う、他人に厳しい面や気の強いところ、本当の姉のような態度が気に入っていた。もう少し言えば好きだった。それでも、美優が自分をどのように感じているかは読み取ることができなかった。仲良くやっているから、それでもよかった。
第三章 猫の死
雪菜はいつものように美優のマンションに向かっていた。見慣れた公園まで来た。バラの植え込みを過ぎると、子供が雪菜の視界に入ってきた。子供はやっぱり苦手だ。小さな時から、幼い子供の相手をするのが億劫だった。今となっては、どう扱っていいのか分からないので、幼児を見るだけで緊張する。
「近道なんてするんじゃなかったな」
と、呟きながら、子供たちが遊んでいる遊具の反対側の、石畳を進んだ。
公園の中ほどに来たときだった。雪菜は異様な気配に気づき、ドキリとした。
「えっ」
と言って、植木の根元に目をやった。他の小さな植え込みで隠れているので、公園にいる誰も気がつかない可哀想なことが起きていた。雪菜は苦痛に顔を歪めた。
「なぜ僕の身にはこんな事が起こるのだろう?だからいやなんだ」
と、雪菜は言った。子猫が一匹、木の根元に横たわっていた。息をしている様子はなかった。雪菜は何もできず、足早にその場を立ち去った。
「美優さんは連日夜遅いし、徹夜することもあるようだな」
東京都渋谷、道玄坂。五月十一日夕方。あたりはうす暗くなってきた。ゴールデンウイークをあけて、さすがに道行く人の服装が夏の気配を帯びてきた。気の早い人は、早くもTシャツ姿で若さを強調している。街路樹の緑が一段と濃くなった。都会に目いっぱい自然を感じる季節だ。年々夏の訪れが早くなったように感じる。春が来たと思ったら、いきなり初夏が来る。
スクランブル交差点で、高校生が信号が変わるのを待っている。信号を渡り、商業ビルのところを左に取っていくと、ファーストフード店があった。高校生は店に入ったが、誰もいないのに気づいた。連絡では、「いつもの店」だと言っていたのに。オレンジ・ジュースを注文して、結局三十分も待った。
「くそ!面白くない!」
と、言って、高校生は舌打ちをした。
「俺は、仲間を抜ける」
と、言ったとたんにこれだ。あいつらは、悪い奴らだという認識はある。万引きグループと付き合っていることは、父親には話していないが、大方知っているだろう。悪さをしているところを、姉に偶然見つかってしまったからだ。
だが奴らとは、ここでおさらばだ。来年は高校受験もある。姉の出た都立高校に入るように、家族は口うるさく言う。いつでも、わが身を案じるのが先でなければ生きていけない。受験は人生の通過儀礼だ。いくら通過儀礼だとはいっても、これをクリアしないと、先が見えない。いくら、不良仲間と付き合っていても、それくらいのことは分かる。
人がしている悪いことを止めても何にもならない。遊児には、正義感ぶって興ざめた経験があった。だからといって、率先してやってもいいことにはならないが。昔を思い出したら、余計にイラついてきた。中学校の学級委員が万引きをするのを目撃して、ずいぶんと説教したことがある。しかし、無駄だった。
遊児は店を出た。もと来た道を引き返そうかと思ったが、頭に血が上っていて、あの雑踏が耐えられそうもなかったので、わざと人通りのない道を選んだ。悔しさがこみあげてきて、後ろからつけている足音には気がつかなかった。着実に距離は縮まっていく。ふっと光をさえぎる影が見えた。振り返ろうとした瞬間、ドンという音が聞こえた。
一瞬何が起きたか分からなかった。痛みが全身を突き抜ける。遊児はその場に倒れこんだ。影に見覚えがあったが、それは路地裏に消えた。遊児は、まだある命に全力を振り絞って、
「助けて」
と、叫んだ。誰も来ないのに気づくと、血に染まった指で、犯人を地面に書こうとして、息絶えた。一人、二人と人が集まり、やがて大きな人垣が出来た。救急車が、次いで警視庁のパトカーが到着した。現場は騒然となった。初動捜査班に遅れて、担当の女性刑事が到着した。
「後ろから一突きで、これが致命傷です。持っていた生徒手帳がこれです」
と、言って、担当者が生徒手帳を女性刑事に手渡した。それには、
「東京都立一宮高等学校 西岡遊児」
とあった。女性刑事は、香川美優といった。殺人事件として、捜査は開始された。
第二章 半居候
「学校って帰るのもめんどうくさいな」
新名雪菜は、通りを歩きながら呟いた。公園に植えてある、生命力溢れた真っ赤なバラの横を駆け抜けていった。公園の中を通れば、いくぶん近道になる。雪菜は学校があまり好きではなかった。同級生に溶け込むことが、個性を奪われるようでいやだった。かといって、何でもつっぱねるのはイメージとして古くさくて、やたら反抗するには抵抗がある。
しかし、理由はそれだけではなかった。教師や生徒を内心揶揄していたせいもある。彼らは、ただ学校という日常生活の中でそれぞれの役割を演じているに過ぎないと、漠然と感じていた。あらかじめ筋書きの出来た演劇を見るのは好きではなかった。
親が堅物だと子供は大変だと、雪菜は思う。自分の目から見て明らかに間違ったことや、微妙に自分と合わない考えを押し付けられ混乱すると、自分の中ですっきりいくように修正していくのが、あとあと面倒だ。
母親は会社で働いていて忙しく、父親はといえば警察の官僚をしていて、かまってもらった経験はないことはないが、家族旅行などは縁がなかった。それほどひどい家庭環境でないが、雪菜はわざと家庭に背を向けていた。そうすることで安心を得ていた。感情を抑えたり別なほうに向けたりと、抑制術を学ばなくてすむ分、兄弟がいなくて楽だとさえ思っていた。幼い頃、親の愛情を充分に受けることなく育ったせいか、少々ひねくれていた。
家族に対しては、心と感情がなくなれば、イラつかなくていい。内面が屈折していると、友人に心を許せないことや、学生生活への意欲のなさといった、目の前の問題には、思考がなかなか辿り着けない。
雪菜は中学校に進学した頃から、美優の家に出入りするようになった。香川美優は警視庁の警部である。警視総監である雪菜の父が、
「息子の面倒を見てくれ」
と、命令すると、美優は何でもないように素直に受け入れた。少なくとも雪菜にはそう見えたので、雪菜は逃げ道が見つかったことにし、流れに任せていた。
彼女とは、仲は良かったし、雪菜は彼女の家に出入りするようになってから、家事も手伝った。美優がご飯を作る時間を仕事に当てたかったからだ。家に居たくない思いと、元来の器用さが手伝って、いつのまにか雪菜は家事をこなすようになっていた。学校から帰ったら勉強道具と本をもって、電車に乗って美優のマンションに行った。学校の帰りに寄ることもあった。美優が帰ってくるまでにご飯の支度をして、美優が食事を終ってからは、一日にあったことを話して、テレビを見て、電車に乗って自宅に戻った。
雪菜は、美優の馴れ合いを嫌う、他人に厳しい面や気の強いところ、本当の姉のような態度が気に入っていた。もう少し言えば好きだった。それでも、美優が自分をどのように感じているかは読み取ることができなかった。仲良くやっているから、それでもよかった。
第三章 猫の死
雪菜はいつものように美優のマンションに向かっていた。見慣れた公園まで来た。バラの植え込みを過ぎると、子供が雪菜の視界に入ってきた。子供はやっぱり苦手だ。小さな時から、幼い子供の相手をするのが億劫だった。今となっては、どう扱っていいのか分からないので、幼児を見るだけで緊張する。
「近道なんてするんじゃなかったな」
と、呟きながら、子供たちが遊んでいる遊具の反対側の、石畳を進んだ。
公園の中ほどに来たときだった。雪菜は異様な気配に気づき、ドキリとした。
「えっ」
と言って、植木の根元に目をやった。他の小さな植え込みで隠れているので、公園にいる誰も気がつかない可哀想なことが起きていた。雪菜は苦痛に顔を歪めた。
「なぜ僕の身にはこんな事が起こるのだろう?だからいやなんだ」
と、雪菜は言った。子猫が一匹、木の根元に横たわっていた。息をしている様子はなかった。雪菜は何もできず、足早にその場を立ち去った。
「美優さんは連日夜遅いし、徹夜することもあるようだな」
作品名:高校生殺人事件 警視庁・香川美優と雪菜の事件簿(一) 作家名:蒼井 紘