死に損いの咲かせた花は
【三】
ぎょろりとした二つの大きな目が、こちらを見詰めている。
「……なぁ力丸。彼は?」
「彼? 誰ですか?」
「あそこでこちらを見ている人だよ。肌が黒くて、背の高い」
井戸のそばに突っ立ったまま動かない人影。彼は異人だろう。以前一度、任務の折に彼のような人間を見たことがある。ただ左門が見た異人は、村人に追われてすでに虫の息だったけれど。
「……ああ、彌助のこと?」
彼は力丸と左門の遣り取りに気付いているのだろうか。信じられないほど遠くまで目が見えるらしいと聞いたが、そういえば耳はどうなのだろう。そもそも彼は、この国の言葉が分かっているのだろうか。
「バテレンの宣教師が連れてきた付き人です。大殿に仕えるようになって、そろそろ一年になるのかな」
「へぇ……」
一年もここにいるのなら、おおよそこの国の言葉は分っていると見た方がいいだろう。
彌助のあの容貌を、信長が放っておくとも思えない。信長自身の派手好みはともかくとして、珍しい物はある意味権力の象徴だ。仮に彌助が信長の気に入りならば、彼のいる場所では会話の内容に少し注意する必要がある。
「きれいな肌でしょう? それに背も高いし。優しい人なので私は大好きです」
屈託なく笑う力丸に笑い返し、頭をなでる。それだけのことがよほど嬉しかったらしく、力丸はくすぐったそうにまた笑った。
「お話しますか? 彌助と」
「いや、いいよ。彼も務めに忙しいだろう。私たちもそろそろ稽古に戻ろうか」
「はいっ!!」
前評判のわりに、力丸はいい生徒だった。力丸の素直さは、時に愛らしさを通り越してちょっとした凶器にもなったが、そんなものは大した問題ではない。考えてから話す癖さえ身につけられれば、力丸は頭が悪いのでも素養が無いのでもないのだ。
そして、さすが森家の男児とでも言うのか、力丸は負けん気の強さにおいては他に類を見なかった。
何気なく目を遣ると、どこに消えたのかすでに彌助の姿はなかった。目を閉じて、再び開くまでの間に彌助の存在を意識から外す。
向かい合い、互いに礼をして左門は木刀を構えた。
深い深呼吸。吐く息が亡くなったのを合図に、力丸が踏み込んできた。
「力丸」
木刀同士がぶつかる高い音が、間をおかずに響く。
「はいっ?」
「君から見てで構わないんだが、大殿と奥方様の仲は……その、どうなんだ?」
「っ! ど、どうっ、て?」
左門の手に追いつくのがやっとの力丸に、左門はわざと鍔を狙って打ち込んだ。
力丸はなんとか受け止めたが、鍔迫り合いに持ち込まれて苦しそうに歯を食いしばる。
「仲はいいのか?」
「仲はいいと、思いますが。たまにお二人で、庭の花なんかを眺めてる……のをっ! 見ます、から……」
渾身の力で左門を退けた力丸は、刀を構えなおしながらもすでに息を荒くしていた。
「手首が固いな。力入れすぎだ」
「手首……」
「じゃあ、奥方様と明智殿には、一体どんな関わりがあるんだ?」
「明智殿ぉ!?」
なんでそこで明智の名前が、といった力丸の反応に、左門は片眉を上げた。
とはいえ、力丸の反応を不思議に思いながらも、左門は打ち込む手を緩めない。突き出された切っ先を力丸は避けたが、もう一歩踏み出した左門の太刀筋までは見えなかったようで、防ぐことも出来ずに脇腹を打ちつけられた。
「いっ……てて……。明智殿は、奥方様の従兄ですよ。だから仲がいいんでしょ。それだけ、それだけ」
ただし左門が衝突の瞬間に力を抜いたためか、力丸の体には咳き込むほどの負担はない。
「それだけ? 本当に?」
「だって明智殿って、大殿ともすっごく仲良し……えーと、非常に厚い信頼を、得ていらっしゃる方なんですよ? まぁ奥方様の侍女は、明智殿のご紹介だったそうですが」
それだけのことで勘繰るなんて、と若干気を悪くした風の力丸に、左門は片手で頭をかいた。
「明智殿と大殿は、仲がいいのか?」
「いいですよ。そりゃみんなは、あんまり気が合わないみたいだって言ってるけど」
少し気が抜けたような左門の懐に、力丸が力任せに突っ込んでくる。
体の回転だけでそれを避け、左門は勢いで晒された力丸の背を柄頭で叩いた。小さな悲鳴と一緒に力丸の体が倒れる。
「前のめりにならないように。首を刈られるよ」
言いながら、左門は伏せたまま起き上がらない力丸のうなじに、軽く刃の部分を当てた。
返事がない。
肩で息をする力丸の体は真っ赤だ。それは日焼けだけのせいではなく、力丸の喉からもれる息は、すでに空気が抜けるようなおかしな音をたてていた。
たったの一撃で玉のような汗を流す立ち合いもあるのだ。これは力丸に体力が無いというより、左門と力丸の力の差だろう。現に左門は少し汗ばむ程度にしか疲労はなく、その汗だって稽古のせいなのか、それともこの夏の気候のせいかなのか、よく分からない。
「力丸。大殿はこれからどう動かれる?」
少し落ち着いたのか、力丸はうつぶせたまま顔を上げた。
「これから? えーと……大殿は今は、お部屋で政務をなさっておいでですけど」
話についてこられないあたり、意識はいまひとつはっきりしていないらしい。
「それは私も知ってるよ。今日これからの予定じゃなくて、大殿ご自身が出陣される戦の予定は?」
「さぁ……援軍の要請でもあれば出陣されるでしょうけど、そう危険な戦局にはないという話ですし」
「だったら今日はここまでにしておこうか」
首筋から木刀をどかした左門に、力丸は跳ね起きると慌てて木刀を構えた。
「まだまだお願いします、先生!」
ちょっと呆れるほどの向上心を剥き出しにされて、左門は溜息をつく。
「だめ。今日はおしまい」
「なんでですか!? ここが戦場だったら、疲れたからって誰も待ってくれないでしょ!?」
「そうだね、でもここは戦場じゃないからね。それに、いつ出陣となるか分からないのにこんなところで肉刺でも潰して、いざって時に刀を握れないんじゃ情けなくって目も当てられないよ?」
「先生!! 茶化さないでくださいっ!!」
宥めて刀を置こうとした左門に、力丸がなぜか半泣きで怒り出してしまった。
疲労困憊による情緒不安定だろう。これ以上はいよいよ難しい。どうやら根性論で乗り切りたいらしい力丸を、果たしてどう扱ったものかと左門は目を泳がせる。
頑なに構えを解かない生徒に向かい、左門はやれやれと木刀を構えた。
「っ! 先生――」
そして、それに喜んだ力丸が何を言うより早く、左門は木刀を振りかぶると加減せずそれを振り下ろした。
左門にとってはそうでもなかったが、力丸には獲物が爆発したような錯覚を覚えただろう。
左門は頓着せず、地面に転がった木の棒を拾い上げた。
刃の根元にあたる部分を叩き折られた木刀は、残念だがもう使い物にならない。かつて木刀だったそれは左門のものより軽く、力丸の年齢を意識させられて思わず苦笑がもれる。
転がったまま起き上がらない力丸を見下ろして、左門は自分の木刀を地面に置いた。
「……だから、もう仕舞いだって言っただろ」
空いた手で力丸の腕をつかみ、背負う。気を失った力丸はされるがまま、喜びも抵抗もせず左門に負ぶさった。
作品名:死に損いの咲かせた花は 作家名:葵悠希