死に損いの咲かせた花は
【結】
誰もが天下を取ると思っていた織田信長の、突然の訃報。しかもそれは、明智光秀という織田軍の武将が謀叛を起こしたためだという。
本能寺の変。
この一晩の騒動は、後の世でそう呼ばれる事となった。
そしてその本能寺の変から幾日か経った、まだ暑い夏の日。
摂津と山城の国境、山崎にて、謀叛の首謀者である明智光秀と、高松から引き返した羽柴秀吉が刃を交えた。
戦況はやはり、主君殺しの明智軍に道理はなく、誘いに乗るものも少ないことが敗因となり、仇討ちの口実に肥大した羽柴の軍勢におされた光秀は、自軍の後方にあった勝竜寺城への撤退を余儀なくされた。
そしてその夜、光秀は密かに勝竜寺城を脱出し、居城である坂本城を目指して落ち延びる。
雨が降っていた。
しとしとと熱気が鎮まる気持ちのいいものではない。雷と暴風に見舞われた、嵐のような音をたてる雨。
「これじゃあ無理です! もう諦めましょう、秀吉様!!」
暗闇に雷が光り、間を置かずに地響きのような音が叩きつけられた。今のはずいぶんと近い。
「秀吉様! 陣へ戻りましょう、危険ですよ!!」
自分を宥めようとする部下の声が、なぜか妙に秀吉の勘に障った。
頭では分かっているのだ。落ち武者狩りもある世の中、落ち延びようと逃げたところで、光秀は長くは持たないだろう。だが。
「……光秀……」
秀吉の粘着質な視線は、嵐の中を這いずり回るようにそこら中を巡っていた。
「……畜生め、光秀ぇ!!」
腸が煮え繰り返るようだった。
信長を急襲し、こうして秀吉に追い詰められたとはいえ、光秀は天下を手にした。笑ってしまうほど短い期間のことだったとはいえ、それでもたしかに、あの男は秀吉の味わったことのない境地に立ったのだ。
「天下が……っ!」
何のために信長の元へ伊賀の残党を送り込んだと思うのか。どうして左門を選んだと思うのか。あの気の弱い男であれば恨みに我を忘れ、その時一番天下に近かった信長を、近い将来に必ず殺すと思ったから。
だから秀吉は、わざわざ二人いた内で左門の方を選んだのに。
「帰りましょう、秀吉様!!」
「……天下……」
「えぇ!?」
ぞわりと、黒い影が虫のように秀吉の体を這い登る。どうして、どのようにというものではない、ただやみくもに天下がほしい。
だがしかし、天下人の証となる光秀の首は、すでにこの場にない。
そして、それを知るのは――。
「……ぇ……?」
ごぽ、と喉で血が泡立つ、嫌な音がした。
「……ひ、よし……さ……」
家来が勢いよく咳き込み、秀吉は彼の首に刺した刀を思いきり横に横に引いた。栓がなくなった首から勢いよく血が噴き出すが、豪雨にのまれてすぐに流れ落ちる。
秀吉は泥の中に転がった首を拾うと、鼻と耳を削いで、生皮を剥いだ。これでもう、この首が家来のものだとわかる者はいない。
「……光秀を獲ったのは儂じゃ」
――家来のものではない。これは紛れもない、“明智光秀の首”なのだ。
「儂の天下じゃあ!!」
誰一人承認のない宣言は、闇の中で豪雨に流されて微かな跡にも残らない。
けれど秀吉の叫び声に呼応するように、暗雲立ちこめる暗闇の中を、稲光が走った。
【終】
作品名:死に損いの咲かせた花は 作家名:葵悠希