さかなのめ
呼吸法
先生とはその日初めてお話をしました。姉の勉強を見に、春の終わりからうちに来ていらしたのですが、学生らしく呑気にあくせくとしている間に夏の休暇が来てしまっていたのです。自分はそれなりに律儀な人格であると思っていたので、これは珍しい事象でした。先生は別段堅苦しいところがあるわけではありませんでしたし、というより私と先生は本当のところ四つしか歳が離れていなかったのでそういった部分で距離がある筈はなかったのです。私に先生を避ける理由はどこにもありませんでした。それでも学校のある間は、つまり私の珍しい怠惰によって帰宅して直後揃って置いてある靴を見留めたり廊下でお顔を合わせても会釈する程度であって、私の中の先生という輪郭は眼鏡をかけなかったときのように薄ぼんやりと見にくいものだったのです。
その日は先生は午後からいらっしゃって、姉は午前中まんじりともせずに過ごしたようです。彼女はたとい知人であっても余所の人が家の内にいると落ち着けない性分らしいのです。先生とお話しているときは終始にこやかであっておくびにも出さず、なんとも解しがたい人間であると常々思っていました。
母が出掛けたので、私は言付け通り一時間ほど経った頃茶菓子の皿と麦茶を持って姉の部屋に行きました。冷やしていた麦茶の瓶は階段を上がる間に大汗をかいてしまって、扉を開けようと手間取ったときに滴が幾筋か床に垂れました。そうしているうちも向こう側からは低く談笑が聞こえていて、私は随分と苦労してから部屋に入りました。姉はこちらに背を向けて座っていましたがすぐに立ち上がり色々を受け取って、私にもお菓子をくれました。すぐに硝子のコップにも水滴が付き始めました。
「あなた、猫はお好きですか」
先生はそんな風に私に言葉を放りました。確かにそれまで顔は見知っていましたが、挨拶もなしであったのでそれは唐突とも無遠慮ともとれましたが向こう二人には自然な流れであったようです。私は飼ったこともないので思い入れも無いが嫌いになる理由も無いといった旨を、至極平坦に伝えました。先生は目を細めて笑んで(私はほんの少し、近所の社の御狐さまを思い出しました)ではその客観的な視点で、猫の顕著なところを挙げてみてくださいと言いました。正直に言いますと私はこの時点で先生を少しばかり普遍でない人と認識しました。姉は知ってか知らずか笑顔でした。
私は一般的な、とかく普遍な視点で猫の輪郭をなぞりました。気儘だとか気高いだとか身体が柔らかいだとか。先生は私が羅列したそれらに満足されたようで笑い、「ほらあなた、大体当て嵌まるじゃありませんか」と姉に向かって仰いました。お姉さんは猫似でありますよねと私に向けて言いました。私は、自分の姉を人前で褒めてしまったような気がして少し恥ずかしくなり、さぁと答えを濁すしかありませんでした。
以来私は母親が先生の為に買ってくる茶菓子を毎度減らすこととなり、街中で擦れ違っても判るくらいに先生の顔を覚えました。実際にそんなことは一度もなかったのですが、季節はまだ夏でした。その日は先生がもうお帰りになるというところに出くわして、私は普段もう少し遅い時間の日課である犬の散歩を早めることにしました。脛に戯れる犬の首輪に紐を結わえていると、母に挨拶をする先生の声と戸が閉まる音が聞こえました。引っ掻かれた足を気にしていたら、先生に声を掛けられました。犬を飼っていたのですか。静かなので今まで気付きませんでした。真っ黒な痩せぎすの犬でしたが懐こい犬で、先生の足にも戯れ付きました。私たちは駅まで御一緒することにしました。
裏の道を通っていったので、夕暮れでしたが未だ雑木の油蝉が凄く、会話に支障するほどでした。先生はよく言えば繊細そうな、口の悪いときの姉に言わせれば少々神経質そうな風貌の方だったので顔色を伺いましたが、そんな私を笑って「蝉は好きですねぇ」と言いました。複数匹の蝉の時雨を遮るように、一匹ひぐらしの鳴くのが聞こえました。犬は既に少しへたって、桃色の舌がちろちろ見えました。
私は駅までの傾いてひび割れたアスファルトの道路を歩きながら、先生が一体どのような回路で景色を見ているのかについて考えていました。普遍の人ではないと思ったときからそのことばかり考えていたのです。私が形を成した頃から傍らに居た姉が、あまり周囲には知られていませんでしたが中々難解な人間であったので、そのような人たちに敏感になっていたのかもしれません。姉はいつもどこかを見て何かを考えていましたがその思考は私の届く領域ではなく、まるで私のそれよりもう少しだけ世界が色鮮やかに見えているのではないかと、そんな邪推を要する人でした。一方先生は、それまでのささやかな接触で私が嗅ぎ取った部分からすると、私や姉はおろか取り巻く周囲みんなを見透かしているようなそんな少し遠いところに居る人のように思えたのです。その時は自分がまるで水面から覗かれた鉢の中の金魚の有様に思えて、居づらく感じたのでした。
私は先生と、主に姉の話をしました。それが自然であろうとどこかで考えたからです。先生も必要な話であるというように肯いて聞いておられました。私は先生が彼女を猫似だと言ったことを思い出して、まことそのようだと思ったのです。なにより最期どこにもいなくなってしまうという話が私の空想を納得させました。
「成る程」 先生は鞄を揺らして歩いて言いました。
「でもあなたも猫似だと思いますよ」
私は思い当たる節というものが無かったので歩を速めつつ首を傾げましたが、先生はまた笑いました。
「あなた犬の方がお好きでしょう。犬似の人は猫が好きで、猫似の人は犬を好むと聞きます」
なんだか随分と簡単に片付けられてしまったようで、釈然としませんが事実に感じたので見逃すこととしました。
「では、私は何者でしょうね」
先生は笑ったまま言いました。咄嗟に答えるには難しい問題でしたから、私は犬の紐を直すふりをして心底考えました。丁度そこの庭先には金魚草が生えていて、源は判りませんが花とも蜜とも違う、何かべったりと甘い匂いがどこからか漂っていました。
沈黙のままに歩き出してから先生はふと顔を上げて、横から伸びていた蜘蛛の巣の切れ端を避けました。そしてもっと遠くを見た仕草が、つまりはあんまり辛そうに見えた為、私はもしかして金魚鉢の中にいるのは先生の方なのではないかと思い当たりました。光が屈折して、私とも姉とも違う景色を見ている先生。とても似合っているように思いました。だから「先生は金魚のような気がします」と正直に伝えました。
先生は私を通してどこかを見て、また目を細めて笑いました。私はこの顔が、何か面白いことにぶつかったときの笑い方なのだと知りました。
「金魚ですか、成る程・・・いやしかし、嫌ですねぇ。私、金魚は嫌です」
先生とはその日初めてお話をしました。姉の勉強を見に、春の終わりからうちに来ていらしたのですが、学生らしく呑気にあくせくとしている間に夏の休暇が来てしまっていたのです。自分はそれなりに律儀な人格であると思っていたので、これは珍しい事象でした。先生は別段堅苦しいところがあるわけではありませんでしたし、というより私と先生は本当のところ四つしか歳が離れていなかったのでそういった部分で距離がある筈はなかったのです。私に先生を避ける理由はどこにもありませんでした。それでも学校のある間は、つまり私の珍しい怠惰によって帰宅して直後揃って置いてある靴を見留めたり廊下でお顔を合わせても会釈する程度であって、私の中の先生という輪郭は眼鏡をかけなかったときのように薄ぼんやりと見にくいものだったのです。
その日は先生は午後からいらっしゃって、姉は午前中まんじりともせずに過ごしたようです。彼女はたとい知人であっても余所の人が家の内にいると落ち着けない性分らしいのです。先生とお話しているときは終始にこやかであっておくびにも出さず、なんとも解しがたい人間であると常々思っていました。
母が出掛けたので、私は言付け通り一時間ほど経った頃茶菓子の皿と麦茶を持って姉の部屋に行きました。冷やしていた麦茶の瓶は階段を上がる間に大汗をかいてしまって、扉を開けようと手間取ったときに滴が幾筋か床に垂れました。そうしているうちも向こう側からは低く談笑が聞こえていて、私は随分と苦労してから部屋に入りました。姉はこちらに背を向けて座っていましたがすぐに立ち上がり色々を受け取って、私にもお菓子をくれました。すぐに硝子のコップにも水滴が付き始めました。
「あなた、猫はお好きですか」
先生はそんな風に私に言葉を放りました。確かにそれまで顔は見知っていましたが、挨拶もなしであったのでそれは唐突とも無遠慮ともとれましたが向こう二人には自然な流れであったようです。私は飼ったこともないので思い入れも無いが嫌いになる理由も無いといった旨を、至極平坦に伝えました。先生は目を細めて笑んで(私はほんの少し、近所の社の御狐さまを思い出しました)ではその客観的な視点で、猫の顕著なところを挙げてみてくださいと言いました。正直に言いますと私はこの時点で先生を少しばかり普遍でない人と認識しました。姉は知ってか知らずか笑顔でした。
私は一般的な、とかく普遍な視点で猫の輪郭をなぞりました。気儘だとか気高いだとか身体が柔らかいだとか。先生は私が羅列したそれらに満足されたようで笑い、「ほらあなた、大体当て嵌まるじゃありませんか」と姉に向かって仰いました。お姉さんは猫似でありますよねと私に向けて言いました。私は、自分の姉を人前で褒めてしまったような気がして少し恥ずかしくなり、さぁと答えを濁すしかありませんでした。
以来私は母親が先生の為に買ってくる茶菓子を毎度減らすこととなり、街中で擦れ違っても判るくらいに先生の顔を覚えました。実際にそんなことは一度もなかったのですが、季節はまだ夏でした。その日は先生がもうお帰りになるというところに出くわして、私は普段もう少し遅い時間の日課である犬の散歩を早めることにしました。脛に戯れる犬の首輪に紐を結わえていると、母に挨拶をする先生の声と戸が閉まる音が聞こえました。引っ掻かれた足を気にしていたら、先生に声を掛けられました。犬を飼っていたのですか。静かなので今まで気付きませんでした。真っ黒な痩せぎすの犬でしたが懐こい犬で、先生の足にも戯れ付きました。私たちは駅まで御一緒することにしました。
裏の道を通っていったので、夕暮れでしたが未だ雑木の油蝉が凄く、会話に支障するほどでした。先生はよく言えば繊細そうな、口の悪いときの姉に言わせれば少々神経質そうな風貌の方だったので顔色を伺いましたが、そんな私を笑って「蝉は好きですねぇ」と言いました。複数匹の蝉の時雨を遮るように、一匹ひぐらしの鳴くのが聞こえました。犬は既に少しへたって、桃色の舌がちろちろ見えました。
私は駅までの傾いてひび割れたアスファルトの道路を歩きながら、先生が一体どのような回路で景色を見ているのかについて考えていました。普遍の人ではないと思ったときからそのことばかり考えていたのです。私が形を成した頃から傍らに居た姉が、あまり周囲には知られていませんでしたが中々難解な人間であったので、そのような人たちに敏感になっていたのかもしれません。姉はいつもどこかを見て何かを考えていましたがその思考は私の届く領域ではなく、まるで私のそれよりもう少しだけ世界が色鮮やかに見えているのではないかと、そんな邪推を要する人でした。一方先生は、それまでのささやかな接触で私が嗅ぎ取った部分からすると、私や姉はおろか取り巻く周囲みんなを見透かしているようなそんな少し遠いところに居る人のように思えたのです。その時は自分がまるで水面から覗かれた鉢の中の金魚の有様に思えて、居づらく感じたのでした。
私は先生と、主に姉の話をしました。それが自然であろうとどこかで考えたからです。先生も必要な話であるというように肯いて聞いておられました。私は先生が彼女を猫似だと言ったことを思い出して、まことそのようだと思ったのです。なにより最期どこにもいなくなってしまうという話が私の空想を納得させました。
「成る程」 先生は鞄を揺らして歩いて言いました。
「でもあなたも猫似だと思いますよ」
私は思い当たる節というものが無かったので歩を速めつつ首を傾げましたが、先生はまた笑いました。
「あなた犬の方がお好きでしょう。犬似の人は猫が好きで、猫似の人は犬を好むと聞きます」
なんだか随分と簡単に片付けられてしまったようで、釈然としませんが事実に感じたので見逃すこととしました。
「では、私は何者でしょうね」
先生は笑ったまま言いました。咄嗟に答えるには難しい問題でしたから、私は犬の紐を直すふりをして心底考えました。丁度そこの庭先には金魚草が生えていて、源は判りませんが花とも蜜とも違う、何かべったりと甘い匂いがどこからか漂っていました。
沈黙のままに歩き出してから先生はふと顔を上げて、横から伸びていた蜘蛛の巣の切れ端を避けました。そしてもっと遠くを見た仕草が、つまりはあんまり辛そうに見えた為、私はもしかして金魚鉢の中にいるのは先生の方なのではないかと思い当たりました。光が屈折して、私とも姉とも違う景色を見ている先生。とても似合っているように思いました。だから「先生は金魚のような気がします」と正直に伝えました。
先生は私を通してどこかを見て、また目を細めて笑いました。私はこの顔が、何か面白いことにぶつかったときの笑い方なのだと知りました。
「金魚ですか、成る程・・・いやしかし、嫌ですねぇ。私、金魚は嫌です」