One tree story.
どこからともなく吹いてきた風に乗って一粒種が落ちてきた。ほんの少しの土と占める程度の水とひとつまみの堆肥で一粒の種は双葉になった。双葉は伸びて、根は伸びずとも葉を広げて精一杯太陽の光を浴びようとした。
アスファルトは根を遮り、高層ビルは光を遮る。犬のフンや街路樹の落葉、酸性雨でなんとか飢えをしのいだ。一株の双葉は一本の小さな木になった。
ある日、サラリーマンが育っていく苗に気付いた。取引先との往来であったので、毎日サラリーマンは見に来るようになった。取引が終わっても、雨の日も風の日も通った。一本の小さな木はどうして自分だけこんな目に遭うのかとサラリーマンに聞いてみた。サラリーマンは答えなかった。
小さな木はそのうち目立つようになって、邪魔だと言う人が現れた。邪魔だといわれた木はすぐに役所に届けられ、抜かれることが決まった。邪魔だと言われた木が抜かれる日、サラリーマンは庭に植え替えようと植木鉢とスコップを抱え急いでいた。拾得物は持ち主が現れるまで一年間待っていてくださいと役所の人に断られた。一年経ったら枯れてしまう。木は泣くに泣けなかった。
木は警察署に預けられることになった。警察署の中は昼夜の区別なく明るかった。サラリーマンは毎日ではなく週末だけ警察署に現れるようになった。木は警察官に水を貰い、蛍光灯の光で生きていた。煙草の灰で葉は黒くなった。木はどうして自分がこんな目に遭うのかサラリーマンに聞いた。サラリーマンはまた答えなかった。半年が過ぎた頃、木は少し大きくなっていた。サラリーマンが警察署に預けた植木鉢はアスファルトの隙間より大きかった。それに木が気付いた時には、警察署でもブラインド越しに日光が当たることにも気付いた。水をくれる人が忙しい時には代わりにくれる人が居ることも気付いた。サラリーマンは一ヶ月に一度しか来なくなっていた。
小さな木が中くらいの木に育った時に、サラリーマンは警察署から木を引き取りに来た。一年前は抱えられた植木鉢がもう一人では持てなくなっていた。木は歩けるものなら歩きたかった。サラリーマンの隣を。疲れたサラリーマンのベランダに中くらいの木が置かれた。奥さんはイヤな顔をした。息子が葉っぱをちぎった。サラリーマンは毎晩木の隣で煙草を吸い、酒を呑んだ。木にも酒をやった。木は酒なんていらないから水をくれと、言えるものなら言いたかった。気は米のとぎ汁を奥さんに貰った。奥さんはイヤな顔をした割に毎日きちんと水をくれた。息子の赤いミニカーが植木鉢に入れられた。中くらいの植木はもうベランダも植木鉢も窮屈になっていた。ハトのフンよけネットから張り出した枝をマンションの管理人が邪魔だと言った。下の階のおばさんが、陽が差さないと苦情を言った。サラリーマンと奥さんは木を田舎へ植え替えようと決めた。
サラリーマンの田舎にはサラリーマンのお母さんと犬と兄夫婦が住んでいた。山のふもとに庭がつながっている家に三人と一匹は住んでいた。息子は植木鉢を車に積む時、歓声を上げ、手を叩いた。サラリーマンは腕まくりをして大きな大きな穴を掘った。息子が穴に入って遊んだ。木は日当たりの良いところで思う存分根を張れるようになった。
田舎のお母さんは畑の堆肥をやった。足が上手く曲がらなくなった田舎のお母さんは、それでも畑を耕していた。サラリーマンに野菜を送ろうと雨の日も風の日も腰を曲げて畑の草を抜き、虫を取り、肥料をまいていた。
中くらいの木は、サラリーマンの植木鉢から田舎の広い庭に出て、きっと大きくなれると思った。サラリーマンは汗や泥にまみれて笑っていた。奥さんは陽が当たるからいいと嬉しそうだった。息子はまた来るねと笑っていた。兄夫婦は時々畑を見に来たがサラリーマンの目とは違う目で木を見ていた。兄夫婦はもう他の木と区別がつかない様子で眺めていた。日当たりの悪さを心配することもなく、邪魔だと言う人も居らず、枝を遮るものもない。どこまでも根を張れ、養分はどこまででも吸い取れそうだった。
ようやく大きな木になれる。木はサラリーマンのやせた背中を思い出した。
木が植え替えられてから冬が来た。お母さんの巻いてくれた藁の上から雪が積もって重かった。枝が折れそうだった。土は凍り霜が降りて、根がしびれるとはこんなものかと思った。根が伸びるどころじゃないと木は意外に感じた。うさぎが木の洞に飛び込んできた。うさぎは大きいのと小さいのと一匹ずつだった。大きいのが木の根を掘り出して齧って、小さいのはむき出しになったやわらかい根を食べた。木は冬が早く過ぎるのを願った。春になってうさぎは出て行き、齧られた根にも皮ができた。芽が生え、木は暖かな日差しの中で大きく育っていった。春は虫の増える時期でもあった。虫は青々としげった木の葉をむしり、卵を産みつけ、増えていった。木の根元に、いつのまにか花が咲いていた。花の蜜を吸いに蜂が寄ってきた。蝶も飛んできた。木にはカブトムシやクワガタが来るようになった。蝉が樹液を舐めるようになって、木は夏が来たことを知った。
田舎は夏でも木は暑くなかった。アスファルトやコンクリートもなく、暑がるサラリーマンも風鈴をつるす奥さんも居ない。花火が上がるのも木からは見えなかった。
木はここでは人より虫が多いのだと知った。スーパーで買ってきたものではなく、畑から生えている野菜を始めて見た。ぬいぐるみではないうさぎや、野生の大きな熊の爪や、たくさんの鳥を眺めては、木は生まれた場所を思い出していた。人がたくさん歩いていて、たくさんの靴が別の生きものに見えていた。田舎に来なければきっと、この世界で木は一本だけで、人の中で生きていくのだと思った。今では木の方が多い場所に居る。季節が巡り、お母さんが居なくなり、次に犬が消えた。兄夫婦はたくさんの荷物を車に積んで、どこかへ行ってしまった。
どうしているだろうと木は考えた。また来ると笑っていた息子は、サラリーマンは、奥さんは。
アスファルトは根を遮り、高層ビルは光を遮る。犬のフンや街路樹の落葉、酸性雨でなんとか飢えをしのいだ。一株の双葉は一本の小さな木になった。
ある日、サラリーマンが育っていく苗に気付いた。取引先との往来であったので、毎日サラリーマンは見に来るようになった。取引が終わっても、雨の日も風の日も通った。一本の小さな木はどうして自分だけこんな目に遭うのかとサラリーマンに聞いてみた。サラリーマンは答えなかった。
小さな木はそのうち目立つようになって、邪魔だと言う人が現れた。邪魔だといわれた木はすぐに役所に届けられ、抜かれることが決まった。邪魔だと言われた木が抜かれる日、サラリーマンは庭に植え替えようと植木鉢とスコップを抱え急いでいた。拾得物は持ち主が現れるまで一年間待っていてくださいと役所の人に断られた。一年経ったら枯れてしまう。木は泣くに泣けなかった。
木は警察署に預けられることになった。警察署の中は昼夜の区別なく明るかった。サラリーマンは毎日ではなく週末だけ警察署に現れるようになった。木は警察官に水を貰い、蛍光灯の光で生きていた。煙草の灰で葉は黒くなった。木はどうして自分がこんな目に遭うのかサラリーマンに聞いた。サラリーマンはまた答えなかった。半年が過ぎた頃、木は少し大きくなっていた。サラリーマンが警察署に預けた植木鉢はアスファルトの隙間より大きかった。それに木が気付いた時には、警察署でもブラインド越しに日光が当たることにも気付いた。水をくれる人が忙しい時には代わりにくれる人が居ることも気付いた。サラリーマンは一ヶ月に一度しか来なくなっていた。
小さな木が中くらいの木に育った時に、サラリーマンは警察署から木を引き取りに来た。一年前は抱えられた植木鉢がもう一人では持てなくなっていた。木は歩けるものなら歩きたかった。サラリーマンの隣を。疲れたサラリーマンのベランダに中くらいの木が置かれた。奥さんはイヤな顔をした。息子が葉っぱをちぎった。サラリーマンは毎晩木の隣で煙草を吸い、酒を呑んだ。木にも酒をやった。木は酒なんていらないから水をくれと、言えるものなら言いたかった。気は米のとぎ汁を奥さんに貰った。奥さんはイヤな顔をした割に毎日きちんと水をくれた。息子の赤いミニカーが植木鉢に入れられた。中くらいの植木はもうベランダも植木鉢も窮屈になっていた。ハトのフンよけネットから張り出した枝をマンションの管理人が邪魔だと言った。下の階のおばさんが、陽が差さないと苦情を言った。サラリーマンと奥さんは木を田舎へ植え替えようと決めた。
サラリーマンの田舎にはサラリーマンのお母さんと犬と兄夫婦が住んでいた。山のふもとに庭がつながっている家に三人と一匹は住んでいた。息子は植木鉢を車に積む時、歓声を上げ、手を叩いた。サラリーマンは腕まくりをして大きな大きな穴を掘った。息子が穴に入って遊んだ。木は日当たりの良いところで思う存分根を張れるようになった。
田舎のお母さんは畑の堆肥をやった。足が上手く曲がらなくなった田舎のお母さんは、それでも畑を耕していた。サラリーマンに野菜を送ろうと雨の日も風の日も腰を曲げて畑の草を抜き、虫を取り、肥料をまいていた。
中くらいの木は、サラリーマンの植木鉢から田舎の広い庭に出て、きっと大きくなれると思った。サラリーマンは汗や泥にまみれて笑っていた。奥さんは陽が当たるからいいと嬉しそうだった。息子はまた来るねと笑っていた。兄夫婦は時々畑を見に来たがサラリーマンの目とは違う目で木を見ていた。兄夫婦はもう他の木と区別がつかない様子で眺めていた。日当たりの悪さを心配することもなく、邪魔だと言う人も居らず、枝を遮るものもない。どこまでも根を張れ、養分はどこまででも吸い取れそうだった。
ようやく大きな木になれる。木はサラリーマンのやせた背中を思い出した。
木が植え替えられてから冬が来た。お母さんの巻いてくれた藁の上から雪が積もって重かった。枝が折れそうだった。土は凍り霜が降りて、根がしびれるとはこんなものかと思った。根が伸びるどころじゃないと木は意外に感じた。うさぎが木の洞に飛び込んできた。うさぎは大きいのと小さいのと一匹ずつだった。大きいのが木の根を掘り出して齧って、小さいのはむき出しになったやわらかい根を食べた。木は冬が早く過ぎるのを願った。春になってうさぎは出て行き、齧られた根にも皮ができた。芽が生え、木は暖かな日差しの中で大きく育っていった。春は虫の増える時期でもあった。虫は青々としげった木の葉をむしり、卵を産みつけ、増えていった。木の根元に、いつのまにか花が咲いていた。花の蜜を吸いに蜂が寄ってきた。蝶も飛んできた。木にはカブトムシやクワガタが来るようになった。蝉が樹液を舐めるようになって、木は夏が来たことを知った。
田舎は夏でも木は暑くなかった。アスファルトやコンクリートもなく、暑がるサラリーマンも風鈴をつるす奥さんも居ない。花火が上がるのも木からは見えなかった。
木はここでは人より虫が多いのだと知った。スーパーで買ってきたものではなく、畑から生えている野菜を始めて見た。ぬいぐるみではないうさぎや、野生の大きな熊の爪や、たくさんの鳥を眺めては、木は生まれた場所を思い出していた。人がたくさん歩いていて、たくさんの靴が別の生きものに見えていた。田舎に来なければきっと、この世界で木は一本だけで、人の中で生きていくのだと思った。今では木の方が多い場所に居る。季節が巡り、お母さんが居なくなり、次に犬が消えた。兄夫婦はたくさんの荷物を車に積んで、どこかへ行ってしまった。
どうしているだろうと木は考えた。また来ると笑っていた息子は、サラリーマンは、奥さんは。
作品名:One tree story. 作家名:_weekmatu