心中未遂
あの頃真由たちが住んでいた町は、とても小さくて、そのせいか人や建物がぎゅうぎゅうに敷き詰められているような圧迫感が常に重く圧し掛かっていた。
何処でもいいから、逃げてしまいたい。そんな言葉にはできない焦燥が、ひっそりと同年代の中に流れていたのを何より身近に感じていた。
彼女はそれが人一倍強かったのだ。だけれど、町を出ることができないことも同じくらい強く理解していたのだろう。
だからいつも、空ばかり眺めて、ここではない何処かを夢見ていたのだ。彼女がクラスで浮いていたのは、そんな所が大いに関係していたのかもしれない。
見栄や大人ぶりたい意地で必死に焦燥感を隠していた子供から見てみれば、彼女のそんな幼いまでの真っ直ぐさは異様なものに映ったのだ。
真由は自分の持っていないその真っ直ぐさが羨ましくて妬ましくて、何より憧れだった。
海岸沿いに浜木綿は咲くのだと、彼女に教えられた時。
「それじゃあ、ここでもない何処か別の海岸沿いにも咲いてるのかな」
何気なく口にしたその言葉に、満面の笑みで振り返って首肯した彼女の表情が、目蓋の裏で鮮やかに瞬いた。
彼女が口にした「何処か遠く」は、結局のところ「何処か遠く」という以外の何物でもなくて、ただの言葉でしかなかったのだ。それ自体が明確な場所を示すわけではない。
そんなものだけでは、何処まで遠くに行ったとしても、そこが望んだ場所になるわけもない。
あの日、脳裏に過ぎったそんな考えが真由に彼女の手を取るのを戸惑わせた。だけれど、そんな考えなど、彼女は承知の上だったのだろう。
何処に行ったとしても、どうせ子供のすることだ。すぐにあの町に引き戻されてしまうに違いなかった。それでも、彼女にとっての意味は、その行動そのものにあったのだ。
ただ町の外に出て、ここではない何処かへ行ってしまいたかっただけなのかもしれなかった。そうして、もしかしたら別の場所に咲く浜木綿でも見れば、それで良かったのかもしれない。救われたのかも、しれない。
あの電車に乗って、町の外に出ることそれだけが、彼女にとっては何より重要なことだったのだろう。
だから、そう。あの時真由は、余計なことなんて考えずに、ただ彼女の手を掴んであの列車に飛び乗っていればよかったのだ。大人ぶって、あれこれ理由を付けて逃げるのではなく。衝動のまま、あの扉に飛び込んでしまえば良かったのだ。
そっと、指でポストカードの表面に触れた。ざらざらとした独特の感触がするばかりで、昔触れたあの花弁の柔らかさとは程遠い。甘い香りも磯の香りも水平線に沈んでいく太陽も、今はこの薄っぺらな紙切れの中にしかない。
自分は随分、遠い所まで来てしまったのだ。改めて、真由はしみじみと胸中で呟いた。校庭からはもう児童たちの声も聞こえなくなっていた。蝉の声すら薄い膜一枚隔てたところから聞こえてくるようで、酷く静かだ。
現実感さえ伴わないような、静けさだった。
今故郷は、浜木綿の咲き誇る季節だろう。彼女はまた、あの駅のプラットホームに立って白い花弁を眺めているだろうか。それとも、つまらなそうに空ばかり見上げているだろうか。
ねぇ、何処か遠くに行ってみようか。
蘇った声に無意識に、カードの表面に伸ばしていた自身の指に気付いて、真由は苦笑混じりに押し戻した。
いくら指を伸ばしたところで、触れるものなんて何もない。何もかも、彼女の手さえも。すべては、何処にも行けなかったあの日に置き去りにしてしまったのだから。
「遠くまで、来ちゃったなぁ……」
時間も距離も、何もかも。
呟いた声はあちこちひび割れていて、口から零れたそばからぽろぽろと崩れていく。
その欠片が、あの奇妙な夏の日々の残骸の胸へと、甘い香りと共に染みた。