本能寺が変
あるいは、もしもあの時、運命の天秤が逆に傾いていたならば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。
今も名の残る歴史上の偉人は皆、この気まぐれな天秤に振り回され、偉業を成し遂げ、そして死んで行った。
「もしもあの時」。そんな言葉を用い妄想を膨らます事が私たちには出来るのだが、それが無意味であることは無論、言うまでもない。
だが語らせて貰おう。もしもあの時、ほんの僅かでも天秤が異なる傾きを見せていたのなら。
これは、今を生きる我々に語ることを許された、無意味で無価値な物語である。
天正十年六月二日。
後にこの日に起きる事件を知る人物は、「あれは避けようのない事故だったんだ」と語るが、その真相は定かではない。
その日の夜。辺りを覆う闇夜をうっすらと照らし上げる半月の明かりが、嵐の前の静寂を演出していた。
「上様!」
静寂を打ち破る声一つ。
「何事だ、蘭!」
「夜襲にございます!」
「夜襲だと? 一体何者か! 明智勢か!」
「いえ、違います。あれは……おそらくは【なのは勢】です! 数は……およそ一万と!」
「一万だと! 徹夜組が一万では開場時には会場の許容数を遙かに上回るではないか!」
「はっ! 今回のイベント会場(本能寺)のキャパはおよそ二万。このままでは入場制限が必須かと思われます!」
この日、本能寺では織田信長主催のオールジャンル同人即売会が予定されていた。
尾張国一の同人オタクで、東方厨でも名高い信長は森蘭丸と共にサークル「第六天魔王」を結成し、マリアリ本などを描いて巨万の富を得ていた。
その額はおよそ百万石とも言われているが、はっきりとした記録が残っていないため詳細は霧の中である。が、信長が同人描きとして大金を得たのは事実であろう。
いつしか信長は壁サークル常連となり、待機列は2時間越えが当たり前、長篠設楽原で開かれたビッグイベントでは五千冊用意した東方本を僅か三十分で完売させるという伝説を気づき上げた(この伝説は売り子として出陣した蘭丸の活躍があったからこそという点を忘れてはならない)。
同人界で行き着くところまで昇った信長は、稼いだ金を使い今度は自らイベントを開催するようになった。
高天神城で初めて開催した東方オンリーイベントは成功を収め、そして今回さらに規模を広げ、オールジャンルイベントを本能寺で開催する運びとなったのである。
「しかし何故なのは勢なのだ。今回のイベントのなのはサークルはそこまで多くはないと聞いておるぞ」
「仰る通りにございます。しかし問題はあるサークルが今回のイベントで再販するなのはとフェイトの抱き枕にございます。なんでも、以前越後で開かれた大イベントにて配布され、瞬殺したという抱き枕が再販されます。その数限定500の先着順!」
「まさか一万のなのは勢全てがその抱き枕目当てだと言うのか!?」
「恐れながら、そうではないかと思われます。この抱き枕は2WAYトリコットと呼ばれる、水着やレオタードに使われる高級生地を用いており、その抱き心地はまさに極楽浄土を体現したものであり、なおかつイラストのレベルも高く、値段は一万五千両とやや高くつきますがそれ相応の価値があるものと断言でき、古くはかの足利氏も愛用していたと言われるまさに至高の一品です」
「……えらく詳しいな、蘭よ」
「はぁっ! 恥ずかしながら私、以前のイベントでこの抱き枕の列に並んだのですが、あと僅かというところで配布終了してしまいました!」
「ああ、そういえばお前フェイト大好きだったよな……」
「はぁっ! 私、信長さまの家臣ではありますが、心は常にフェイトちゃんの方を向いております!ぺろぺろ!」
「いやそれ、いち家臣としてはどうかと思うのだが……、そんなことより蘭よ! 徹夜組は言うまでもなく違反行為だ! 即刻あの愚か者共を隔離列に誘導しろ!」
「恐れながら信長様! 今回本能寺に配備したスタッフの総数は僅か百! 万を越えるであろうキモオタどもを処理するには数が足りませぬ!」
「ぬうう、まずいぞ蘭丸! もしもあの一万のなのは勢を野放しにしたら、イベントそのものも大荒れ、2chではスタッフ糞対応と叩かれ、近隣住民からの苦情も押し寄せ次回のイベント開催が困難となってしまううではないか!」
信長は2chでの叩きや近隣住民の声も恐れているが、しかし真に恐ろしいのはここが京の町だという点である。
京は同人誌、特に猥褻な本に敏感な町で有名で、下手に騒ぎを起こすと幕府からイベント中止命令が出る可能性もある。それは同人界で天下一を目指す信長にとって最悪のシナリオであった。
「と、兎に角対応に当たります! 可能な限り列を維持し、混乱が起こらないように努めます!」
「うむ、頼んだぞ蘭よ!」
売り子時代から培った森蘭丸の列形成の実力は折紙付きである。
その腕は後世の歴史家に『一振りで一千の列を飛ばす(隔離場に)』と評され、列ある所蘭ありと参加者に畏怖されていた。
そんな蘭が、列に向かい駆け出そうとした、まさにその瞬間。一万の軍勢の後方から、新たな軍勢が本能寺に駆け込んできた。
「あ、あれは!? 明智勢!!」
古くから存在する転売という行為。レアなグッズを手に入れ、それを販売価格以上の価格で市場に売る。
いつしかそれは転売屋たちは肥大化し、そして組織化していった。明智勢とは総勢一万を誇る美濃国最大の転売組織である。
「まさか、あの明智勢までもが抱き枕を求めているというのか!」
「おそらくは! あの抱き枕、今でも高値で取引されており、その価格は販売時の五倍から六倍とも言われております!」
「まずい……まずいぞ蘭よ……。このままでは明智勢となのは勢が衝突し、混乱がふくれあがるやもしれぬ! 何としても対処するのだ!」
この時既に森蘭丸の忠信が完全に信長の方を向いていなかった事が、信長にとって最大の敗因だったかもしれない。
信長は侮っていた。蘭丸の胸中に秘められたフェイトへの想いを。そして、以前のイベントで抱き枕を手に入れることの出来なかった悔恨を。
蘭丸は駆け出した。だがその足は列形成ではなく、己が欲求を満たすためだけに動いていた。
「うおおおお! 俺も抱き枕買うぞおおお!!」
「ちょ……蘭よ! 何処へ行く! ていうかお前スタッフだろ! 何で並ぶんだよ! 仕事しろよ仕事!」
「フェイトちゃあああああん!!」
一心不乱に叫びながら蘭丸は一万の人混みへと消えていった。そして会場にはいつの間にか信長一人が残されていた。百人居た筈のスタッフは皆、抱き枕を求めて列へと消えてしまったのだった。
「ぐぬぬぬぬ! 是非に及ばず! ここは一人で何としてもイベントを無事終わらせるしかない!」
信長が槍を持ち立ち上がる、とその時、会場の裏手からもくもくと黒煙が上がり始めた。
「うわあああ! か、火事だあああ!」
会場付近で争っていた明智勢となのは勢が勢い余り火を放ったのだ。そしてその火はあっという間に本能寺を包み込んだ。
「ぬああああ! マズい! 非常にマズいぞおお!」
会場に只一人残っていた信長は、いつの間にか八方を火の壁で塞がれ、気づいた時には二進も三進も行かない情況に陥っていた。
この火事の真相には諸説ある。
今も名の残る歴史上の偉人は皆、この気まぐれな天秤に振り回され、偉業を成し遂げ、そして死んで行った。
「もしもあの時」。そんな言葉を用い妄想を膨らます事が私たちには出来るのだが、それが無意味であることは無論、言うまでもない。
だが語らせて貰おう。もしもあの時、ほんの僅かでも天秤が異なる傾きを見せていたのなら。
これは、今を生きる我々に語ることを許された、無意味で無価値な物語である。
天正十年六月二日。
後にこの日に起きる事件を知る人物は、「あれは避けようのない事故だったんだ」と語るが、その真相は定かではない。
その日の夜。辺りを覆う闇夜をうっすらと照らし上げる半月の明かりが、嵐の前の静寂を演出していた。
「上様!」
静寂を打ち破る声一つ。
「何事だ、蘭!」
「夜襲にございます!」
「夜襲だと? 一体何者か! 明智勢か!」
「いえ、違います。あれは……おそらくは【なのは勢】です! 数は……およそ一万と!」
「一万だと! 徹夜組が一万では開場時には会場の許容数を遙かに上回るではないか!」
「はっ! 今回のイベント会場(本能寺)のキャパはおよそ二万。このままでは入場制限が必須かと思われます!」
この日、本能寺では織田信長主催のオールジャンル同人即売会が予定されていた。
尾張国一の同人オタクで、東方厨でも名高い信長は森蘭丸と共にサークル「第六天魔王」を結成し、マリアリ本などを描いて巨万の富を得ていた。
その額はおよそ百万石とも言われているが、はっきりとした記録が残っていないため詳細は霧の中である。が、信長が同人描きとして大金を得たのは事実であろう。
いつしか信長は壁サークル常連となり、待機列は2時間越えが当たり前、長篠設楽原で開かれたビッグイベントでは五千冊用意した東方本を僅か三十分で完売させるという伝説を気づき上げた(この伝説は売り子として出陣した蘭丸の活躍があったからこそという点を忘れてはならない)。
同人界で行き着くところまで昇った信長は、稼いだ金を使い今度は自らイベントを開催するようになった。
高天神城で初めて開催した東方オンリーイベントは成功を収め、そして今回さらに規模を広げ、オールジャンルイベントを本能寺で開催する運びとなったのである。
「しかし何故なのは勢なのだ。今回のイベントのなのはサークルはそこまで多くはないと聞いておるぞ」
「仰る通りにございます。しかし問題はあるサークルが今回のイベントで再販するなのはとフェイトの抱き枕にございます。なんでも、以前越後で開かれた大イベントにて配布され、瞬殺したという抱き枕が再販されます。その数限定500の先着順!」
「まさか一万のなのは勢全てがその抱き枕目当てだと言うのか!?」
「恐れながら、そうではないかと思われます。この抱き枕は2WAYトリコットと呼ばれる、水着やレオタードに使われる高級生地を用いており、その抱き心地はまさに極楽浄土を体現したものであり、なおかつイラストのレベルも高く、値段は一万五千両とやや高くつきますがそれ相応の価値があるものと断言でき、古くはかの足利氏も愛用していたと言われるまさに至高の一品です」
「……えらく詳しいな、蘭よ」
「はぁっ! 恥ずかしながら私、以前のイベントでこの抱き枕の列に並んだのですが、あと僅かというところで配布終了してしまいました!」
「ああ、そういえばお前フェイト大好きだったよな……」
「はぁっ! 私、信長さまの家臣ではありますが、心は常にフェイトちゃんの方を向いております!ぺろぺろ!」
「いやそれ、いち家臣としてはどうかと思うのだが……、そんなことより蘭よ! 徹夜組は言うまでもなく違反行為だ! 即刻あの愚か者共を隔離列に誘導しろ!」
「恐れながら信長様! 今回本能寺に配備したスタッフの総数は僅か百! 万を越えるであろうキモオタどもを処理するには数が足りませぬ!」
「ぬうう、まずいぞ蘭丸! もしもあの一万のなのは勢を野放しにしたら、イベントそのものも大荒れ、2chではスタッフ糞対応と叩かれ、近隣住民からの苦情も押し寄せ次回のイベント開催が困難となってしまううではないか!」
信長は2chでの叩きや近隣住民の声も恐れているが、しかし真に恐ろしいのはここが京の町だという点である。
京は同人誌、特に猥褻な本に敏感な町で有名で、下手に騒ぎを起こすと幕府からイベント中止命令が出る可能性もある。それは同人界で天下一を目指す信長にとって最悪のシナリオであった。
「と、兎に角対応に当たります! 可能な限り列を維持し、混乱が起こらないように努めます!」
「うむ、頼んだぞ蘭よ!」
売り子時代から培った森蘭丸の列形成の実力は折紙付きである。
その腕は後世の歴史家に『一振りで一千の列を飛ばす(隔離場に)』と評され、列ある所蘭ありと参加者に畏怖されていた。
そんな蘭が、列に向かい駆け出そうとした、まさにその瞬間。一万の軍勢の後方から、新たな軍勢が本能寺に駆け込んできた。
「あ、あれは!? 明智勢!!」
古くから存在する転売という行為。レアなグッズを手に入れ、それを販売価格以上の価格で市場に売る。
いつしかそれは転売屋たちは肥大化し、そして組織化していった。明智勢とは総勢一万を誇る美濃国最大の転売組織である。
「まさか、あの明智勢までもが抱き枕を求めているというのか!」
「おそらくは! あの抱き枕、今でも高値で取引されており、その価格は販売時の五倍から六倍とも言われております!」
「まずい……まずいぞ蘭よ……。このままでは明智勢となのは勢が衝突し、混乱がふくれあがるやもしれぬ! 何としても対処するのだ!」
この時既に森蘭丸の忠信が完全に信長の方を向いていなかった事が、信長にとって最大の敗因だったかもしれない。
信長は侮っていた。蘭丸の胸中に秘められたフェイトへの想いを。そして、以前のイベントで抱き枕を手に入れることの出来なかった悔恨を。
蘭丸は駆け出した。だがその足は列形成ではなく、己が欲求を満たすためだけに動いていた。
「うおおおお! 俺も抱き枕買うぞおおお!!」
「ちょ……蘭よ! 何処へ行く! ていうかお前スタッフだろ! 何で並ぶんだよ! 仕事しろよ仕事!」
「フェイトちゃあああああん!!」
一心不乱に叫びながら蘭丸は一万の人混みへと消えていった。そして会場にはいつの間にか信長一人が残されていた。百人居た筈のスタッフは皆、抱き枕を求めて列へと消えてしまったのだった。
「ぐぬぬぬぬ! 是非に及ばず! ここは一人で何としてもイベントを無事終わらせるしかない!」
信長が槍を持ち立ち上がる、とその時、会場の裏手からもくもくと黒煙が上がり始めた。
「うわあああ! か、火事だあああ!」
会場付近で争っていた明智勢となのは勢が勢い余り火を放ったのだ。そしてその火はあっという間に本能寺を包み込んだ。
「ぬああああ! マズい! 非常にマズいぞおお!」
会場に只一人残っていた信長は、いつの間にか八方を火の壁で塞がれ、気づいた時には二進も三進も行かない情況に陥っていた。
この火事の真相には諸説ある。