川辺にて
しかし、汽車の立てる音は好きだった。列車が鉄橋を渡りきるまでの二十数秒を私は気に入っていた。まず遠くで長々と汽笛が鳴った。カーヴ、踏み切り、鉄橋、走る場所につれて車輪の音がいちいち変わる。時々ひきつったような音が混じる。小刻みな汽笛も心地よい。渡りきった後の清々した音が遠ざかる。
私は、何度も鉄橋を歩いて渡った。途中で汽車が来て鉄橋の縁にしがみついた。枕木にぶら下がって、汽車の通過を耐えようとしたが、轟音と振動と降ってくる糞尿の大攻勢に負け、手を離して河原に落ちた。落ちたところに女の乞食が住んでいた。ただの乞食ではなく、掘っ立て小屋を理髪店にしていた。私はたわむれに入ってみたことがある。蓬髪で歯の欠けた年齢不詳の女がいた。赤ん坊をおぶっていた。手動のバリカンでにがにがと髪をむしられて泣きそうになった。
その乞食の小屋から下流に二百メートルほど下ると私が通っていた小学校がある。土手の下に校庭が広がっていた。正門のそばに私の好きな女の子が住んでいた。一年、二年と同じクラスで、六年でまた同じクラスになった。中学高校も同じ。東京では付き合いがなかった。お互いに忙しかったのだろう。彼女は離婚して、この地でバーを開いた。開店のときに、私は鉢植えの蘭をおくった。バーの開店のときはそうするものだとひとに教わっていたからだ。一時は高校の同窓会場のようであったらしいが、飽きられて、つぶれた。彼女はどこかへ行ってしまった。
乞食の住処から上流に百メートルほど上ったあたりに、私が三日間だけ同棲した女が住んでいるはずだ。あの後、旦那の任地に十年以上暮らしてから、私の元の家の近くに引っ越してきたらしい。
同じ高校に通っていた。同学年だったが、同級になったことはない。高校生のときは、電話で長話をよくしたものの、デートは二、三度、映画とスケートに付き合っただけだ。フィギアスケートの国体選手だった。中年女性のコーチについていた。痩せた、やや色黒の、清楚な、意志の強そうな女の子だった。眼をきらめかせ、羞恥で頬を真っ赤にさせながら、目標は冬季オリンピックだと打ち明けてくれた。大学四年の秋にその彼女が突然東京の私の下宿に尋ねてきた。
彼氏が、言うてきたとよ。同い年。工学部なんよ。就職先が九電に決まったんよ。結婚してくれっていうてきとんしゃーと。泣いて頼むとよ。いっしょに映画を見るといつもそいつ泣くんよ。そいつの子供、堕ろしたと。そのときも、あいつ、泣いとった。
私は、女の前でやたらに泣く男なんか信用するなよ、とつっけんどんに言った。
その人はいい人なんよ。けどね、いまいち頼りないんやなあ。うち、その人のこと、好きなんか好きでないんか、わからんとよ。
私の下宿は六畳間で、壁を掘りぬいてベッドがしつらえてあった。本棚、机椅子、冷蔵庫、コンポ。申し訳程度のキッチンがついている。トイレとシャワーは共同だった。彼女は、床に横坐わりして、日本酒を飲んだ。私が燗をつけてやった。タバコもひっきりなしに吸った。私は、灰皿を取替え、酒をついでやり、彼女の話を聞く振りをした。彼女はへたり込んで動こうとしなかった。夜も更けて、酔っ払ってろれつが回らなくなりながらも、彼女は、手をたたきながら歌を歌った。体育会系の男子学生が飲み会で歌う卑猥な歌だった。私は黙って聴き、歌が終わってからも感想を述べなかった。
うち、どげなわけで、こげんことに、なったとかいなあ。
彼女は背中を老婆のように丸めてつぶやいた。鼻をすすった。おかっぱの髪が両頬を覆った。あんなに姿勢がよかったのに。私は、あらためて彼女の体を見直した。太り始めていた。色が黒いのは変わりないが、不健康などす黒さだった。動作がのろく、倦怠感が漂っていた。
やがて彼女は上体を起こし、まっすぐ私を見つめた。目の下には隈が出来ていたが、目そのものはきらきら光った。
うち、孕みやすいんよ。いましたら必ず孕むよ。そして、あんたは必ずするよ。うち、帰ったら結婚しちゃうよ。どうする?
私はさっき、この女に電話をかけた。
「もしもし、畑田ユリ様はいらっしゃいますか。私…… 」
「あっはー、覚えてる。忘れはしないわよ。いちおう懐かしいなぁ。銀行員やってるんだって?」
酒とタバコと年齢とでがらがらになった声が聞こえた。わずかに昔の名残があった。東京に来た時は、まだやや低めの柔らかないい声をしていた。私は、しわが寄ってたるんだ声帯が震えているのを想像した。
「あんたも、もうおやじになっとるやろね。まあ、私だって、でぶでぶのばばあだけど。白髪いっぱいだよ、上も下も。あんた、もしかして禿げてないか?」
私は、今の季節の雑木林だと答えた。下品な笑いがかえってきた。
「すぐ近くにいる? なんでいまごろここにいるのよ。ええっ? ある事情って何なの。出張じゃないの? 無断欠勤か。家族にも黙って。どうでもよくなった? ふざけないでよ。ちょっとお、ここいらで首なんかくくらないでちょうだいよね。辛気くさいったらありゃしない。あんた、だめなやつだったんやね、やっぱり。手前勝手な男。相変わらずやね。周りを心配させても平気なんやね。私の判断に誤りはなかったわ。あんたなんかと。まったく、あぶなかったなあ。 ざまあみろやね。」
私は、彼女の話をろくに聞いていない。
「気になることがあるんだがな」、と私。
私はずっと気になっていた。。今まで、それならそれでもいいかといった不埒な態度をとってきたが、今日のショックのせいで、急に心配になり、いても立ってもいられなくなった。この地にやってきた理由のひとつはそれだ。
「君は、ここに帰ってきてすぐ結婚して、とてもすぐに子供を産んだね。あのあと一年近くたってから、ご両親に聞いて驚いた。ずっと気がかりだった。
僕の子か?」
彼女はかっかと笑った。
「ちょっと待って! 五分後にかけなおしてね、かっはっは」
五分後に彼女いわく、「時期的に少しずれるわね。あんたのじゃあないわ」
「男の子か、女の子か? 正直に言えよ、二十二歳三ヶ月だろ?」
「息子よ。九大の経済の四年。あんたなんかとは大違いの真面目な子よ。九電に就職が決まってるわ。あんた、いいかげんにしなよ」
「会わせてくれたらはっきりする。いや、遠くからでいいから、見せてくれ。見ればすぐわかる」
「わかってどうすんのよ。わかるとなにか変わるの? 万一あんたの子だったらどうだって言うの。あんた、自分以外の人間に真面目になったこと、あった? 無責任で調子よくってさあ。そもそもあんた……」
「もういいよ。すまなかった。見せてくれなくてもいいよ。悪かった。ひとつだけ教えてくれ。
爪を噛むかい?」
「……噛まない」