桜の咲く頃
暖かくなってきたとはいっても、まだまだ肌寒い空気の中、あたしは飼い犬のチビを連れて歩いていた。
チビとはいってもジャーマンシェパードだから、図体はでかいのだが。
年をとって、ずいぶんヨボヨボしてしまっているチビは、今はとても散歩に連れ出しやすい。昔はものすごい力で引っ張られて、犬の散歩をしているというより、私が犬に連れまわされているという感じだった。
よくよく思い返せば、チビがうちにきて13年たつ。
うちに来たときのチビは子犬で、私がいい名前をつけようと考えている間に家族から「チビ」と言われつづけたせいで、気がついたらチビになっていた。もっとかっこいい、名前をつけてあげりゃあよかったなあと思うことも、ちょっとある。
でもチビは自分の名前がどんな意味を持つのか、全然知らないわけだし、チビと呼んだらパタパタと尻尾を振って喜んじゃうのだ。
「チビ」
試しに呼んでみる。
なあにー? という顔で私の横を歩く犬が振りかえった。
「あんたさあ、あたしにもらわれなかったら今ごろ警察犬だったんだよ」
頭をなでられるでもなく、何かもらえるでもないことにすぐに気づいたチビは、またフンフンと何かのにおいを嗅ぐことに夢中になった。
「かわいい子のにおいでもすんの?」
試しに聞いてみた。
チビは振りかえらなかった。そのまますたすたと前を向いて歩き出した。
関係ないけど、チビは女の子だ。
しばらく行くと、私の通っていた中学校が見えてくる。
フェンスの向こう側に植えられた桜は、まだ三分咲きといったところだ。
中学生だったのって、何年前だろう…
そんな昔のことじゃないのに、ここに、中学の制服を着て、重い学校指定のカバンさげてせっせと通っていた日々があることが、嘘のように思える。記憶にはあるけどリアリティがないというか。なんでだろう。
同じように、高校時代も記憶にはあるけれど、という感じに薄れていってしまうのだろうか。高校の制服を着て、毎日坂道を登って通学したことや、教室の風景や、授業の雰囲気や、休憩中のざわめきとか……いろいろ。
夕闇に包まれていくグランドを、ライトが照らしている。
教室に明かりはなく、職員室だけが眩しい。先生たちがうろうろしているのが見えた。
体育館にも明かりがついていた。声が聞こえる。部活でもやってんのかな。
「よお」
と、いきなり声をかけられて、あたしはびっくりして振りかえった。…いない?
「違う違う、こっちだって」
また声がして、あたしは声のしたほうを向いた。
グランドのフェンスの上に、男が一人。いい感じでそばに植えられた桜の影に入って、顔がよく見えないんだけど、それがこないだまでクラスメイトだった由比孝一だって、すぐにわかった。
わかってしまった。
悔しいことに、あたしはこいつがどんな人ごみにいても、視界に入りさえすればすぐに見つけることができる。見つけて、しまうのだ。
もちろん、あたしのそんな特技など、由比は知らないだろう。
これはあたしだけの秘密で、誰にも教えてない特技だからだ。
由比にも教えない。
前は、卒業前に打ち明けようかなんて思ったこともあるけれど、いろいろ思うことがあって秘密にしておくことにした。
「西根んとこのシェパードって、それ? でかいなー。やっぱりかみついたら放さないわけ?」
「人にかみついたりしないわよ。なんでそんなところにいるの?」
「花見。ここさあ、桜のまん前じゃん。絶好の花見ポイントだと前から思ってたんだよな。でも実際やったことってなくてさあ。もうすぐここ離れるだろ。その前にやっておこうと思って」
そう言いながら、由比は桜を見上げた。
あたしもつられるように、木を見上げた。
重そうなつぼみの中に、ぽつぽつと混じる咲いた花は、学校の前の外灯たちに弱く照らされて白く浮かび上がっていた。
「桜って、わさーって咲いてなんぼの花だよな。こんなちまちま咲いたところ見ても、なんか迫力ないと思わん? この桜の木、細いし。どうせなら下に死体埋まってるって噂がたつくらいの大木の桜とか見てみてーよな」
「大阪の造幣局の通りぬけは?」
「あそこってすごい?」
「知らない」
「知らんのに人に勧めるのかよ、おまえは」
「知らないから見てきてもらおうと思って。……そういえば由比って、大学決まったの? どこになった? 卒業式にも来なかったから、知らないんだよね」
「俺がいなくて女子どもが泣いたか」
「いや、あんたがいないことに気づかない人がほとんどだったわよ。出席とって、あ、由比って来てないんだねーって」
「薄情だなーみんな」
由比はけらけらと笑った。
由比の笑顔、明るい声、この3年間いつもそばにあった広い背中。そんなものがそれぞれの進路とともに遠くなっていく。
それはしかたのないことだ。
頭ではわかっている。でも心が寂しいという。静かな、諦めの色をした悲しみがひたひたとあたしの心を染めていく。そうじゃない、これは出発なんだと思おうとしても、ダメだ。
今が夕方でよかった。
あたしの顔も夕闇にまぎれて、はっきり見えないはず。
こんな暗い顔を、あたしは由比に見せたことがない。由比には、あたしは明るいクラスメイトとして記憶しておいてほしい。…それがあたしの、プライドだった。
「西根は、いつ行くんだ?」
しばらくして、由比が口を開いた。
「30日。4月3日が入学式だから…早めに行こうと思って」
「ふーん。京都だっけ、大学」
「うん。いいでしょ」
「修学旅行で一回行ったなあ。いっぺんゆっくり行ってみたかったな」
フェンスの上で、由比がうーん、と伸びをした。
「由比はいつ行くの?」
そういえばあたしはまだ、進学先を聞いてないと思いながらたずねた。
「急だけど今晩発つことになったんだ」
「えっ。そうなの?」
「うん。家のほうにはさ、もう言ってきてあるんだ。荷物ももう送っちまったし。あとは出発するだけなんだけど、その前にどうしても、ここで花見しておきたくて。…なんか、俺、この町あんまり好きじゃなかったんだけど、いざ離れるとなると、いろいろやり残したことがあったんだよなあって思ってさ。いろいろあったんだけど、とりあえず花見しとこうかなって、思って」
言いながら、由比は目を細めた。…ような気がした。
あたりはすっかり暗く、由比は桜の影にすっぽり入ってしまって、顔は見えない。
再び、由比は口を閉ざした。
あたしもなんとなく、言葉を続けづらくて黙り込んだ。
どれくらいそうしていただろう。
風が吹く。まだ冷たい風が、体温をさらっていく。チビが退屈し始めて、さかんに引き綱を引っ張り始めた。
「あんまりここにいると、風邪ひくな。そろそろ帰れよ」
由比が言った。
これが教室なら、なにを偉そうに命令してんのよー、とか、言いつつ教科書で由比の背中をひっぱたくぐらいはできたんだけど、由比の口調があんまりにも静かだったから、あたしは、なんとなく頷くことしかできなかった。
「由比…あんたはどうするの?」
「もうちょっと桜を見てるよ。…最後に会えたのが西根でよかった。心残りがひとつ、なくなった感じがする」
「? 何言ってんの、あんた」
チビとはいってもジャーマンシェパードだから、図体はでかいのだが。
年をとって、ずいぶんヨボヨボしてしまっているチビは、今はとても散歩に連れ出しやすい。昔はものすごい力で引っ張られて、犬の散歩をしているというより、私が犬に連れまわされているという感じだった。
よくよく思い返せば、チビがうちにきて13年たつ。
うちに来たときのチビは子犬で、私がいい名前をつけようと考えている間に家族から「チビ」と言われつづけたせいで、気がついたらチビになっていた。もっとかっこいい、名前をつけてあげりゃあよかったなあと思うことも、ちょっとある。
でもチビは自分の名前がどんな意味を持つのか、全然知らないわけだし、チビと呼んだらパタパタと尻尾を振って喜んじゃうのだ。
「チビ」
試しに呼んでみる。
なあにー? という顔で私の横を歩く犬が振りかえった。
「あんたさあ、あたしにもらわれなかったら今ごろ警察犬だったんだよ」
頭をなでられるでもなく、何かもらえるでもないことにすぐに気づいたチビは、またフンフンと何かのにおいを嗅ぐことに夢中になった。
「かわいい子のにおいでもすんの?」
試しに聞いてみた。
チビは振りかえらなかった。そのまますたすたと前を向いて歩き出した。
関係ないけど、チビは女の子だ。
しばらく行くと、私の通っていた中学校が見えてくる。
フェンスの向こう側に植えられた桜は、まだ三分咲きといったところだ。
中学生だったのって、何年前だろう…
そんな昔のことじゃないのに、ここに、中学の制服を着て、重い学校指定のカバンさげてせっせと通っていた日々があることが、嘘のように思える。記憶にはあるけどリアリティがないというか。なんでだろう。
同じように、高校時代も記憶にはあるけれど、という感じに薄れていってしまうのだろうか。高校の制服を着て、毎日坂道を登って通学したことや、教室の風景や、授業の雰囲気や、休憩中のざわめきとか……いろいろ。
夕闇に包まれていくグランドを、ライトが照らしている。
教室に明かりはなく、職員室だけが眩しい。先生たちがうろうろしているのが見えた。
体育館にも明かりがついていた。声が聞こえる。部活でもやってんのかな。
「よお」
と、いきなり声をかけられて、あたしはびっくりして振りかえった。…いない?
「違う違う、こっちだって」
また声がして、あたしは声のしたほうを向いた。
グランドのフェンスの上に、男が一人。いい感じでそばに植えられた桜の影に入って、顔がよく見えないんだけど、それがこないだまでクラスメイトだった由比孝一だって、すぐにわかった。
わかってしまった。
悔しいことに、あたしはこいつがどんな人ごみにいても、視界に入りさえすればすぐに見つけることができる。見つけて、しまうのだ。
もちろん、あたしのそんな特技など、由比は知らないだろう。
これはあたしだけの秘密で、誰にも教えてない特技だからだ。
由比にも教えない。
前は、卒業前に打ち明けようかなんて思ったこともあるけれど、いろいろ思うことがあって秘密にしておくことにした。
「西根んとこのシェパードって、それ? でかいなー。やっぱりかみついたら放さないわけ?」
「人にかみついたりしないわよ。なんでそんなところにいるの?」
「花見。ここさあ、桜のまん前じゃん。絶好の花見ポイントだと前から思ってたんだよな。でも実際やったことってなくてさあ。もうすぐここ離れるだろ。その前にやっておこうと思って」
そう言いながら、由比は桜を見上げた。
あたしもつられるように、木を見上げた。
重そうなつぼみの中に、ぽつぽつと混じる咲いた花は、学校の前の外灯たちに弱く照らされて白く浮かび上がっていた。
「桜って、わさーって咲いてなんぼの花だよな。こんなちまちま咲いたところ見ても、なんか迫力ないと思わん? この桜の木、細いし。どうせなら下に死体埋まってるって噂がたつくらいの大木の桜とか見てみてーよな」
「大阪の造幣局の通りぬけは?」
「あそこってすごい?」
「知らない」
「知らんのに人に勧めるのかよ、おまえは」
「知らないから見てきてもらおうと思って。……そういえば由比って、大学決まったの? どこになった? 卒業式にも来なかったから、知らないんだよね」
「俺がいなくて女子どもが泣いたか」
「いや、あんたがいないことに気づかない人がほとんどだったわよ。出席とって、あ、由比って来てないんだねーって」
「薄情だなーみんな」
由比はけらけらと笑った。
由比の笑顔、明るい声、この3年間いつもそばにあった広い背中。そんなものがそれぞれの進路とともに遠くなっていく。
それはしかたのないことだ。
頭ではわかっている。でも心が寂しいという。静かな、諦めの色をした悲しみがひたひたとあたしの心を染めていく。そうじゃない、これは出発なんだと思おうとしても、ダメだ。
今が夕方でよかった。
あたしの顔も夕闇にまぎれて、はっきり見えないはず。
こんな暗い顔を、あたしは由比に見せたことがない。由比には、あたしは明るいクラスメイトとして記憶しておいてほしい。…それがあたしの、プライドだった。
「西根は、いつ行くんだ?」
しばらくして、由比が口を開いた。
「30日。4月3日が入学式だから…早めに行こうと思って」
「ふーん。京都だっけ、大学」
「うん。いいでしょ」
「修学旅行で一回行ったなあ。いっぺんゆっくり行ってみたかったな」
フェンスの上で、由比がうーん、と伸びをした。
「由比はいつ行くの?」
そういえばあたしはまだ、進学先を聞いてないと思いながらたずねた。
「急だけど今晩発つことになったんだ」
「えっ。そうなの?」
「うん。家のほうにはさ、もう言ってきてあるんだ。荷物ももう送っちまったし。あとは出発するだけなんだけど、その前にどうしても、ここで花見しておきたくて。…なんか、俺、この町あんまり好きじゃなかったんだけど、いざ離れるとなると、いろいろやり残したことがあったんだよなあって思ってさ。いろいろあったんだけど、とりあえず花見しとこうかなって、思って」
言いながら、由比は目を細めた。…ような気がした。
あたりはすっかり暗く、由比は桜の影にすっぽり入ってしまって、顔は見えない。
再び、由比は口を閉ざした。
あたしもなんとなく、言葉を続けづらくて黙り込んだ。
どれくらいそうしていただろう。
風が吹く。まだ冷たい風が、体温をさらっていく。チビが退屈し始めて、さかんに引き綱を引っ張り始めた。
「あんまりここにいると、風邪ひくな。そろそろ帰れよ」
由比が言った。
これが教室なら、なにを偉そうに命令してんのよー、とか、言いつつ教科書で由比の背中をひっぱたくぐらいはできたんだけど、由比の口調があんまりにも静かだったから、あたしは、なんとなく頷くことしかできなかった。
「由比…あんたはどうするの?」
「もうちょっと桜を見てるよ。…最後に会えたのが西根でよかった。心残りがひとつ、なくなった感じがする」
「? 何言ってんの、あんた」