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ノノコが俺を舐める

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 一

 そいつはまるで律義な怨霊のように、俺の背後にぴたりとくっついていた。
 しかしながら俺は一般的に言われている所の『第六感』ってのが著しく欠乏しているようで、心霊現象とか怪奇現象の類はこれまで全く体験した事がないし、他人の体験談を聞いたところでどれも本当に馬鹿馬鹿しく胡散臭いので、そうした説明のつかない不可解現象は一切信用しない事にしている。いや、信じる信じないとかの次元をすっ飛ばしてそもそも俺は第六感以前の致命的な欠陥を抱えており、『恐怖』という得体の知れない感覚に関してひどく鈍感、無関心なのである。『怖い』の程度を示す計測器がちっとも針を揺らさない。たとえ暴力系マフィアに銃口を向けられるなどして己の命が脅かされようとも、それに付随する恐怖心や精神の不安定を億尾にも出さず平然と笑っていられる自信が俺にはある。だから実害があろうがなかろうが幽霊なんてものはちっとも怖れるに足らないのだ。
 が、突然現れたそいつは俺の背後に這い寄ると早速、俺の命を脅かしてきた。
 そいつは放課後の教室で帰り支度の最中であった俺の肩を、いや、俺の首を刈らんとする手つきで鋭い軌道を描いた。途端に全身からごっそり血液を抜き取られたみたいな戦慄が走る。あまりに突然の恐怖体験に俺は身の震いがしてそれからゆっくりと振り向くと俺の背後にいたそいつは動物をあやす時の、いや、動物をあやめる時にする冷酷で殺人的な双眸をして身を寄せ、俺の鼻先に下唇を掠めるくらいの至近距離で囁いた。
「あっくん、好き。好きだよ、あっくん。うち、あっくんの事、好きなの。好き! え、何故かって? そりゃー好きだから好きに決まってるじゃない。ね、好き。好き好きスキスキだーい好きっ。もう、好きったら好きなの!」
 その時点ではまだ俺はそいつの執拗な『好き』の発言数をカウントするくらいの余裕、冷静さはあった。だが俺の鼻先で吐息と言葉を放つそいつは次の一言で俺の鼻の穴に本物の恐怖をねじ込んできた。
「ねーね、あっくん! その鎖骨、舐めていい?」
 そう言った彼女——通山ノノコは肉厚で綺麗なピンク色をした舌を、ぺろん、と出して動物をあやめる時の双眸をしながら頬を赤らめている。ベクトルの違う感情が入り混じったような笑い方だった。さらさらの長い黒髪が風に揺れて俺の耳朶を優しく撫ぜる。音、風景、世界の一切が遮断されたような錯覚に陥って少しだけ眩暈がした。
 そして彼女は繰り返す。
「いい?」
 俺は力強く、首を横に振った。

 首を横に振る事が肯定の意味合いを持つ文化圏が存在するのかどうかは知らんが、少なくとも日本国内では首を横に振るイコール否定、あるいは拒絶の意志表示であって、俺はちゃんとそうした正しい手順を踏んで通山ノノコに自分の意志をはっきりと伝えたし、それを受けた通山ノノコは俺に対して鎖骨を舐めるという卑猥で無秩序な行為に及んではいけないのだと一発で理解すべきである。
 なのにノノコは休み時間が訪れる度に俺を誰もいない保健室へと連れ去る。
「あっくん、シャツ脱いでっ」
「断る」
「えー、なんでだよー! ぶーぶー」
「おっ、うまいじゃん。似てる似てる」
「……もうっ! 豚さんのモノマネしてるわけじゃないんだよぅ!」
 保健室のベッドの上に膝を乗せて、ぶー、と頬を膨らまし拗ねるノノコ。
 俺はため息混じりに言う。
「ところでノノコさん。俺はもう教室へ帰りたいのですが」
「だめ。まだあっくんの鎖骨、舐めてないもん」
「俺の鎖骨なんか舐めてどうすんだよ」
「いひひ。あっくんを吸血鬼にしてやるの。シャーッ!」
「そうか、お前は吸血鬼だったのか。ならばこうだ」
 俺は保健室のカーテンをシャッ、と全開にした。燦々と照る太陽の光がベッドに座るノノコの全身に降り注がれると「にゃー、うち吸血鬼だから日光を浴びると溶けて死ぬぅー!」と説明口調で叫びながら純白のシーツを巻き込んでのた打ち回り、やがて力尽きるとベッドに側臥して動かなくなった。のた打ち回ったせいか制服のボタンがひとつ外れていて、ノノコの無防備な鎖骨を伝う汗の雫が日の光に照らされているのがちらりと見えた。俺はそれを直視出来ず周章狼狽、どうしようもなかったので静かにカーテンを閉めた。ベッドが日陰になるとノノコは復活して飛び起きた。
「ねぇ、あっくん」
「なに」
「うちがもしも本当に吸血鬼だったら、素直に鎖骨舐めさせてくれてた?」
「あほか。お前が何者だろうと、俺は首を横に振り続けるよ」
「てひーん♪」てひーんというのはノノコの口癖で、主に照れ隠しや嘘隠しの際に使用する擬音であったが、今はどちらにも当てはまらないしどうやら場面を選ばない万能言語だったらしい。「じゃあじゃあ、あっくんの首の骨ぽきんって折って、縦にしか動かないようにしちゃおっかなー」
「そんな力があるなら、最初から強引に押さえつけて問答無用で舐めちまえばいいのに」
「ぶー、うちはそんな破廉恥な女の子じゃありませんー!」
 眉尻を吊り上げて詰め寄ってくるノノコの表情からは、その台詞がボケなのか本気なのかちっとも判断が付かなかったので「はいはい、分かったよ。とりあえず教室へ戻ろう」と軽くあしらう様に宥めて保健室を出ようと扉に手をかけたのだが、背後に回ったノノコの冷たい手が俺の皮膚越しに神経を捉え、首筋の体温を一瞬にして奪った。なんてこった。俺はまたあの時と同じ恐怖、怯え、戦慄って奴を全身に循環させてしまった。
 振り返ると、ノノコはまたあの時と同じように、俺の鼻先に唇が触れるか触れないかくらいの距離に顔を近付けていた。ノノコの温かい吐息が俺の顔面にかかり、爽やかな芳香、ノノコの匂いが嗅覚をぷちっと刺す。
「ねぇ、気付いた?」
 唐突にクエスチョンマークを掲げるノノコ。
「何を?」
「うち、髪切ったの。ちょっとだけだけどね、前と横のあたり梳いちゃった」
「そうなのか。俺あんまり洞察力ないから分かんなかったよ、すまん」
「ねぇ、あっくん、好きだよ……」
 文脈を無視したノノコの告白。俺は少しだけ怖くなった。ノノコの発言のひとつひとつが俺を試しているような気がした。ノノコのこれで何度目になるか分からない愛の告白を最早言葉通りの意味で受け取る事が出来ないし、それはもう異性に好きと言われて嬉しいとかそういう次元の話ではなくなっていた。だから、俺は単刀直入にノノコに訊いた。
「……お前は俺にどうして欲しいんだよ」
 俺の意を決した問いに、ノノコは答えなかった。首振りでの意志表示もなかった。鎖骨舐めたい、の一言で茶化す事も出来たし、まぁ俺としてはもっと核心に迫った回答を期待していたのだけれど、それでも彼女は一言も発さずに俺の横を風に舞う塵のように何事もなく通り過ぎて、一足先に教室へと帰ってしまった。
作品名:ノノコが俺を舐める 作家名:sisterist