未視感の中、君
「まあ教室にいるのも面倒だし、話でもしようかと思って」
いくら私よりも状況がマシでも、神崎君だってある意味で言語障害者なのだから、会話が成り立たなくて困るのだろう。中途半端に相手の言っていることだけわかるっていうのもストレスが溜まるのかもしれない。わからないけど。とにかく人に飢えていた私には願ってもなかった。朝から数時間経って、私は相手が誰だろうが関係なくなっていた。今まで会話した頻度に関係なく、言葉が通じるありがたみを思い知る。
「ありがたいな。私、退屈で退屈で。自己紹介から始めようか?」
「や、今更だろ」
「でもほとんど話すの初めてだし、お互い名前くらいしか知らないでしょ?」
「だからって自己紹介することないって。質問があれば答えるけど」
そう言われたので、他に適当な話題も浮かばないし、とりあえず当たり障りのない質問をしてみることにした。
「じゃあ部活は?」
「サッカー」
へえ、と一人で感動してみる。そしてまた質問した。
「家族構成は?」
「親と妹が一人」
「妹いるんだ?何歳?」
「高一」
「いっこ下か。どこの学校?」
「ここ」
短い答えに驚いた。「え、そうなの?」と聞きかえすと肯定される。知らなかった。帰宅部で他学年と交流が薄いせいかもしれないけど、ちょっと見てみたい。
「妹可愛い?」
「別に可愛くない。うるさい」
「ふうん、兄妹ってそんなもんかな。私は一人っ子だからわかんないけど」
「俺も妹とはほとんど話さないけど」
ほとんど話さないのは私たちの方だった。でも、こんなふうにぽつぽつとは会話できていたから不思議だ。でも上出来だ。一日中誰とも話せなかった私にしてみればかなり貴重な時間だった。関心を持ったことがなかった人の新たな一面を知ってみるのも悪くない。
「ねえ、いつまで続くと思う?」
話題が途切れた頃に聞いてみた。いくらなんでもこの状況がいつまでも続くようでは困る。お昼休みも終わろうとしていた。五時間目、ついていくのが大変な数学であるにも関わらず、やっぱり私はサボタージュを決行しなくてはいけない。
「多分すぐ終わるよ」
「すぐっていつかな?午前中だけでも精神的にかなり疲れたよ、私。このままじゃ授業には取り残されるし、友達と会話できないし、状況も説明できないし、頭痛するし、そのうち精神科とか連れて行かれそうな気がするの」
「……そうだな」
神崎君の表情はやけに暗かった。きっと彼も将来を案じているのだと思う。短い冗談じゃ済まされないことって困る。文字と声が溢れる世界で言葉から切り離されるなんて。
「こんなのこれ以上続いたらノイローゼになっちゃうよね」
私は同意してほしかったのだけど、神崎君は黙ってしまった。無視、というわけではなくて、何も言葉を返せない、という感じだった。どうして責め立てられたような顔をしているのかわからなかった。すると突然彼は、
「ごめん」
と謝ってきた。その理由がわからなかったので、とりあえず「なにが?」と聞くと、それに重ねるようにして、「返すよ」と言われた。意味がわからなかった。
でも、それが終わりの合図だった。
瞬間、 パァンという音もなく、神崎君はシャボン玉みたいに弾けて、光の粒子になって、消えてしまった。なんの冗談?と、呆けることしかできなかった。
「神崎君?」
空気中に呼びかけても返事はない。最初は一人でお弁当を食べる覚悟を決めたつもりだったのに、取り残された私は途方に暮れて、心細くなって、人のいる場所・教室に戻ることにした。もしかしたらそこに神崎君がいるかもしれないという淡い期待も込めて。
廊下を歩けば、すぐに変化に気づいた。ざわめきも耳を澄ませばひとつひとつが意味を持った言葉の集合だし、ポスターの文字にも歪みはなく、音読したくなるほどはっきり読めた。世界には言葉が戻っていた。私の今日の苦労は夢か幻だったみたいに、なんともあっけない。
けれど、そんな喜ばしい出来事とは相反して、私の顔色は悪かった。「返すよ」という声が蘇る。何を?言葉を?私から言語理解能を奪ったのは神崎君だったとでも?
教室のドアを開けた瞬間に案の定視線を浴びる。友達が叫ぶ、駆け寄ってくる、腕を掴まれる。「里緒」と呼ばれる名前。「一体何なの!」という文句。全部聞き取れたけど、右から左へ抜けていく。私の視線は自分の席の隣、神崎君の席に注がれていた。机の上には菊の花。歩み寄って花瓶を持ち上げた。水が入っていて、どっしりと重い。
「なにこれ、イジメにしては酷すぎるでしょ」
ちゃんと冗談になるように言ったつもりだったのに、青ざめた呟きにしかならなかった。私の行動に教室中が驚いていた。その驚き方に嫌な予感がした。
「なに、言ってるの?もうお葬式も終わったでしょ。だいたい朝から飾ってあったし」
「え」
「里緒は事故現場に居合わせたんだよね? ショックだったのはわかるけどさ……」
「久しぶりに学校来たと思ったら、今日は……」
それ以降の言葉は頭に入って来なかった。少なくとも朝の私の目にはこんな花瓶なんて映っていなかった。代わりに見えていたのは。
急に数日前の光景を思い出した。赤くて生々しい光景だ。私は忘れようとしていたのか、忘れさせられていたのか。わからないけど、とにかく思い出した。次に、ついさっきまでの彼の姿が浮かんだ。その声も姿も、記憶はもう朧気で、映像としては浮かんでこない。泡沫になって消えてしまった。
それは実体ではなかったという証明にも思えたけど、それでもとにかくさっきまでそこにいて、会話していたことだけは確かだ。「返すよ」と言った神崎君。私に何かを借りてまで留まって、何をしようと、伝えようとしたんだろう。それとも意味なんてなかったのか。
一日酷い目に合わされたことに対する怒りなんてものはない。振り回されたとも思わない。神崎君だって最初は本当に気づいていなかったのかもしれないと思う。
たしかにショックだった。大きすぎる。けれど真実を知っても泣けなかった。タイミングを失ってしまった。わけがわからない未知の世界に放り込まれた中で神崎君にほっとしたということが事実だし、そんな非現実的な現実以外の現実こそが非現実的だった。
いろいろなことが信じられない。でも、否定はしたくなかった。だからとりあえず、空虚の底から救い上げてくれたことに対して、なにか恩返しをしよう。そう思って次の日、私は一年生の教室に足を運んだ。そこには「可愛くない。うるさい」という言葉とはほど遠く、しおらしく悲しみのどん底にいる女の子の姿があった。