未視感の中、君
始まりの朝、いつものように起きてお母さんにおはようを言った。
でも、返答はなかった。聞こえなかったのかと思ってわざわざ台所まで行った。するとお母さんは私に向かって何かを言った。そう、何かを。聞き取れなくて「え、何?」と聞き返した。今度はお母さんが首を傾げて、早くご飯食べなさい、みたいなこと何かの言語で言って、私を促した。私はやるせない思いのまま朝食をとり、着替えて家を出た。
次の異変は文字だった。地下鉄の駅の広告や定期券の文字が歪んで全く見えない。けれど視力は悪くないはずで、現に人の顔は見分けられた。ケータイを開くと、やはり文字だけが霞んで読めなかった。私は何かがおかしいと気付いていたけど、寝ぼけているせいだと決めつけた。昨日いつ寝たのか思い出せない。頭も少しボーっとしていた。電車に乗っている間は学校に着きさえすればいいと思った。
学校に着くと、いよいよ不安が膨れ上がった。話しかけてきた友達が何を言っているのか理解できなかったのだ。何度も何度も聞き返すと、ふざけているのかと思われたみたいで、怒らせてしまった。けれど、それでもわからなかった。私が口を開くと首を傾げるのは皆の方だった。
担任の先生が入ってきてホームルームが始まって、私はついに耳を塞いだ。先生の声を『音』としか認識できなかった。急に気味が悪くなった。此処はどこだろう、私は誰だろう、この世界は何なのだろう。目の前に広がるのはいつもの光景なのに。どうしよう、日本語が理解できない。
青い顔の私に気付いた先生が声をかけ、そして応答しない私に近づいてきた。けれど私はその伸びてくる手を振り払った。教室中が私を見る。泣きそうになった。
「おい、大丈夫?」
光が射した。私は慌てて声の方向を振り向いた。声の主は隣の席の神崎君だった。隣の席だけど、めったに話さないからどんな人物なのかよく知らない。けれど今、たしかに言った。私は聞こえた。理解できた。その事実に救われる気がした。「大丈夫」と言おうと思ったけど、実際のところ状況は大丈夫じゃなかった。
「ねえ、皆はなんて言ってるの?」
「皆って?」
「先生とか、クラスの皆とか、もっとたくさん、いろんな人」
「それは、それぞれがいろんなこと言ってるだろ」
「じゃあ今先生はなんて言ってるの?」
「……『具合が悪いなら保健室に行きなさい』」
翻訳してもらうと、本当にこのわけのわからない言語は日本語だったんだ、可笑しいのは私なんだと実感した。保健室に行くべきか悩んだけど、保健の先生にも言葉が通じないかもしれない。私は先生に首を振って否定を示し、ちょうどそのときチャイムが鳴ったから、逃げるようにして教室を出た。
「なあ、結局なんだったの?」
教室から少し離れた廊下をうろうろしていると、神崎君に声をかけられた。気に掛けて追いかけてきてくれたみたいだった。わけのわからない世界で唯一理解できる言語を話す人がいる、ということは、嬉しいよりもなんだか複雑な気分だった。ほとんど話したことがない人なのに「どうして神崎君?」という思いが強かった。
「わからない」
「じゃあなんでさっき」
「皆がなんて言ってるかわからないの。まるで日本語じゃないみたい。でも、神崎君が話してるのは日本語に聞こえる。……神崎君はなんともないの?」
「なんともないけど……」
やけに歯切れが悪いな、と思ったら、神崎君は続きを言った。
「俺は皆が言ってることわかるけど、皆は俺が言ってることわかってなかったのかもしれない」
「そうなんだ」
違和感はあったらしい。「具体的に気づけよ」とも思うけど、口数が多い人じゃないから仕方ないのかもしれない。仲間を見つけたという安心感と、私よりも条件がマシな神崎君への嫉妬に似た気持ちが同時に胸の奥に生まれた。
「この異変について、なにか心当たりある?」
「何も」
「だよね。まったく、迷惑としか言いようがないよ」
私は八つ当たりするみたいに声に怒気を込めて言った。このどうしようもない状況をどうにかして前向きに考えようと思った結果だ。迷惑の一言で済むようなことなら誰も苦労しない。人に愚痴を言えるのはとても幸せなことだ。神崎君が私に聞く。
「それで、今日どうすんの?」
「サボれるならこのままサボりたいな。っていうか教室戻りたくない。ホームルームだけでも耐えられなかったから、授業受けるのって凄くつらいと思う。緊急事態だから一日くらい犠牲にするよ。今日が終わればどうにかなるかもしれないしね」
「ふうん」
「私のことは気にしないで、神崎君は教室戻りなよ。できれば私の言い訳をして、明日にでもノートを見せてくれると嬉しい」
「わかった」
さすがに普段会話をしないので、突然弾むことはなかった。まあ当然だ。見慣れない背中を見送りながら、私はさあどこに行こうかと考えた。授業をサボった経験なんてないから、時間の潰し方をしらなかったのだ。チャイムが鳴って、廊下にひとり取り残されると、いくら状況が状況でも焦りと罪悪感に駆られた。授業中の廊下は静かかと思っていたら、自分が口を閉ざしていると、いろんなクラスの声が聞こえて、予想外に賑やかな気もした。けれど、それは『音』であって、単語は一つも拾えなかった。廊下に貼ってあるポスターも私の前で意味を持たない。
人に見つかってはいけない、と思ったからとりあえずあまり使われない場所のトイレに避難した。隠れていると犯罪者にでもなった気分だ。私は一体どんな悪いことをしたんだろうか。こんな不可思議なことは、天罰としか思えない。でも、いくら考えても心当たりが浮かばないから、神様の悪戯とでも言うべきか。タチが悪すぎる。
昼休みになると、私はお弁当を取りに教室に戻らなくてはいけなかった。教室の扉を開けると視線が痛くて、友達が、多分「どこ行ってたの!?」みたいなことを叫んだ。相変わらず聞き取れないから、会話することを諦めて沈黙を貫いた。お弁当の包みを持って、再び教室を出る。なんで友達にこんな態度を取らなきゃいけないのかわからない。でも、弁解はいつかするからいい。ちゃんとした理由があるんだから、きっと友情は壊れない。
教室以外でお弁当を食べたこともなかったから、また場所探しに苦労した。さすがにトイレで食べるのは嫌だったから、誰も来ない廊下の突き当たりの空き教室を使った。一人で机に向かってご飯を食べるのは慣れなくて、とても寂しい感じがした。すると彼が顔を出した。珍しく、人当たりのいい表情をしていた。
「淋しい奴だな」
「神崎君?」
「どこ行ったのかと思った」
「どうしたの?」
「さすがに気になるだろ」
もっともだと思ったから、「そうだね」と頷いて、「授業はどうだった?」と聞いた。
「いつもどおり。あ、でも俺文字は読めるけど書けないみたいでさ。だからノートは諦めて」
「そうなの?まあ、どちらにしろ私よりはマシだね。ノートは友達に借りるからいいよ。そういえば、お昼ご飯は?」
「もう食った」
「ずいぶん早いね」
とは言っても、私はどれだけ一人で時間を潰していたのかわからなかったし、普段男子と一緒に食事をしないから早さの判断基準はよくわからなかった。
でも、返答はなかった。聞こえなかったのかと思ってわざわざ台所まで行った。するとお母さんは私に向かって何かを言った。そう、何かを。聞き取れなくて「え、何?」と聞き返した。今度はお母さんが首を傾げて、早くご飯食べなさい、みたいなこと何かの言語で言って、私を促した。私はやるせない思いのまま朝食をとり、着替えて家を出た。
次の異変は文字だった。地下鉄の駅の広告や定期券の文字が歪んで全く見えない。けれど視力は悪くないはずで、現に人の顔は見分けられた。ケータイを開くと、やはり文字だけが霞んで読めなかった。私は何かがおかしいと気付いていたけど、寝ぼけているせいだと決めつけた。昨日いつ寝たのか思い出せない。頭も少しボーっとしていた。電車に乗っている間は学校に着きさえすればいいと思った。
学校に着くと、いよいよ不安が膨れ上がった。話しかけてきた友達が何を言っているのか理解できなかったのだ。何度も何度も聞き返すと、ふざけているのかと思われたみたいで、怒らせてしまった。けれど、それでもわからなかった。私が口を開くと首を傾げるのは皆の方だった。
担任の先生が入ってきてホームルームが始まって、私はついに耳を塞いだ。先生の声を『音』としか認識できなかった。急に気味が悪くなった。此処はどこだろう、私は誰だろう、この世界は何なのだろう。目の前に広がるのはいつもの光景なのに。どうしよう、日本語が理解できない。
青い顔の私に気付いた先生が声をかけ、そして応答しない私に近づいてきた。けれど私はその伸びてくる手を振り払った。教室中が私を見る。泣きそうになった。
「おい、大丈夫?」
光が射した。私は慌てて声の方向を振り向いた。声の主は隣の席の神崎君だった。隣の席だけど、めったに話さないからどんな人物なのかよく知らない。けれど今、たしかに言った。私は聞こえた。理解できた。その事実に救われる気がした。「大丈夫」と言おうと思ったけど、実際のところ状況は大丈夫じゃなかった。
「ねえ、皆はなんて言ってるの?」
「皆って?」
「先生とか、クラスの皆とか、もっとたくさん、いろんな人」
「それは、それぞれがいろんなこと言ってるだろ」
「じゃあ今先生はなんて言ってるの?」
「……『具合が悪いなら保健室に行きなさい』」
翻訳してもらうと、本当にこのわけのわからない言語は日本語だったんだ、可笑しいのは私なんだと実感した。保健室に行くべきか悩んだけど、保健の先生にも言葉が通じないかもしれない。私は先生に首を振って否定を示し、ちょうどそのときチャイムが鳴ったから、逃げるようにして教室を出た。
「なあ、結局なんだったの?」
教室から少し離れた廊下をうろうろしていると、神崎君に声をかけられた。気に掛けて追いかけてきてくれたみたいだった。わけのわからない世界で唯一理解できる言語を話す人がいる、ということは、嬉しいよりもなんだか複雑な気分だった。ほとんど話したことがない人なのに「どうして神崎君?」という思いが強かった。
「わからない」
「じゃあなんでさっき」
「皆がなんて言ってるかわからないの。まるで日本語じゃないみたい。でも、神崎君が話してるのは日本語に聞こえる。……神崎君はなんともないの?」
「なんともないけど……」
やけに歯切れが悪いな、と思ったら、神崎君は続きを言った。
「俺は皆が言ってることわかるけど、皆は俺が言ってることわかってなかったのかもしれない」
「そうなんだ」
違和感はあったらしい。「具体的に気づけよ」とも思うけど、口数が多い人じゃないから仕方ないのかもしれない。仲間を見つけたという安心感と、私よりも条件がマシな神崎君への嫉妬に似た気持ちが同時に胸の奥に生まれた。
「この異変について、なにか心当たりある?」
「何も」
「だよね。まったく、迷惑としか言いようがないよ」
私は八つ当たりするみたいに声に怒気を込めて言った。このどうしようもない状況をどうにかして前向きに考えようと思った結果だ。迷惑の一言で済むようなことなら誰も苦労しない。人に愚痴を言えるのはとても幸せなことだ。神崎君が私に聞く。
「それで、今日どうすんの?」
「サボれるならこのままサボりたいな。っていうか教室戻りたくない。ホームルームだけでも耐えられなかったから、授業受けるのって凄くつらいと思う。緊急事態だから一日くらい犠牲にするよ。今日が終わればどうにかなるかもしれないしね」
「ふうん」
「私のことは気にしないで、神崎君は教室戻りなよ。できれば私の言い訳をして、明日にでもノートを見せてくれると嬉しい」
「わかった」
さすがに普段会話をしないので、突然弾むことはなかった。まあ当然だ。見慣れない背中を見送りながら、私はさあどこに行こうかと考えた。授業をサボった経験なんてないから、時間の潰し方をしらなかったのだ。チャイムが鳴って、廊下にひとり取り残されると、いくら状況が状況でも焦りと罪悪感に駆られた。授業中の廊下は静かかと思っていたら、自分が口を閉ざしていると、いろんなクラスの声が聞こえて、予想外に賑やかな気もした。けれど、それは『音』であって、単語は一つも拾えなかった。廊下に貼ってあるポスターも私の前で意味を持たない。
人に見つかってはいけない、と思ったからとりあえずあまり使われない場所のトイレに避難した。隠れていると犯罪者にでもなった気分だ。私は一体どんな悪いことをしたんだろうか。こんな不可思議なことは、天罰としか思えない。でも、いくら考えても心当たりが浮かばないから、神様の悪戯とでも言うべきか。タチが悪すぎる。
昼休みになると、私はお弁当を取りに教室に戻らなくてはいけなかった。教室の扉を開けると視線が痛くて、友達が、多分「どこ行ってたの!?」みたいなことを叫んだ。相変わらず聞き取れないから、会話することを諦めて沈黙を貫いた。お弁当の包みを持って、再び教室を出る。なんで友達にこんな態度を取らなきゃいけないのかわからない。でも、弁解はいつかするからいい。ちゃんとした理由があるんだから、きっと友情は壊れない。
教室以外でお弁当を食べたこともなかったから、また場所探しに苦労した。さすがにトイレで食べるのは嫌だったから、誰も来ない廊下の突き当たりの空き教室を使った。一人で机に向かってご飯を食べるのは慣れなくて、とても寂しい感じがした。すると彼が顔を出した。珍しく、人当たりのいい表情をしていた。
「淋しい奴だな」
「神崎君?」
「どこ行ったのかと思った」
「どうしたの?」
「さすがに気になるだろ」
もっともだと思ったから、「そうだね」と頷いて、「授業はどうだった?」と聞いた。
「いつもどおり。あ、でも俺文字は読めるけど書けないみたいでさ。だからノートは諦めて」
「そうなの?まあ、どちらにしろ私よりはマシだね。ノートは友達に借りるからいいよ。そういえば、お昼ご飯は?」
「もう食った」
「ずいぶん早いね」
とは言っても、私はどれだけ一人で時間を潰していたのかわからなかったし、普段男子と一緒に食事をしないから早さの判断基準はよくわからなかった。