野ウサギとパフスリーブ
私はパウンドケーキを口に放り込みながら、小さく冥福を祈った。そして、眠りにつく瞬間の彼女を想像し、溜め息を吐く。
いつかは私もこのカフスとも無縁の世界に踏み出すのだろう。それはとても哀しいことのようにも思えるし、少しばかりは安心を伴うものなのだとも思う。だって、主人をなくしたあの日から、私達はずっと死に続けているのだから。
それでも私は彼女の最期が安らかなものであればいいと、静かにそっと願うのだ。
…お互いのためにも。
たとえば、唐突に日の差したあとの、身近でない夜の合間だとか、そらで言える位に繰り返し読んだこの本の黄ばみに気付いたときだとか。そんな時、私は抵抗はしないで、ただ身を委せることに専念するのだ。それは不安に押し倒される様に。
(不安の原因はただ、ふたつだけ)
私達は何時まで待てばいいのか。何時まで待てるのか。
そんな私の考えをそっくり読み取ったかのように、野ウサギの長い耳がぴくりと動いた。
「それにしても、意外だわ」
「何がですか」
「ウサギは淋しくなると死んでしまうんでしょう」
「いえ、それは誤謬ですよ。誰が言い出したのかは分りませんが」
「…ふうん。知らなかったわ」
孤独で兎は殺せない。
なるほど。それならこの野ウサギが未だに生残っていることにも納得がいく。
神妙な顔をして小さく頷いた私を見て、野ウサギはかすかに笑う。その笑いは、大切な秘密を匂わせる時の表情によく似ていて、この森には酷く不釣り合いだと思った。だってもうこの森にはあなたと私しかいないのだから。
「それを言うなら私の方が意外です。あなたみたいなネコが最後まで残っているのが」
「ネコ、なんて言わないで。私にも名前くらいあるわ」
「知っています」
野ウサギの言葉に、私の耳だけがぴくんと反応する。
私は悔しさに指先で歯がみする。私に対する名称を、否定する確かなものを無くしてしまっているのは事実なのだから。気紛れに付けられた、大切だった私の名前。
そんな私の心を知ってか知らずか、野ウサギはゆったりと、ああ、でも。と呟く。
「ネコは主人に従順だと言いますよね」
一般的には知られていないですけれど、と続ける。
私はカップを掴む前足を見つめ、フンと鼻を鳴らした。
従順さが、生活の中に於いて何の役に立つというのだろう。ひたすらに待っているという事実が、誰を救うというのだろう。
ネコ、というのはあらゆる生き物の中で、一番素敵な生き物だと私は思う。グレイも三色もやわらかな毛並みも。だけどこんなことになると知っていたなら、従順さとは無縁の生き物でありたかった。
黙り込んだ私に同調するように、馴染んだこの部屋の中にはじんわりとした沈黙が広がっていく。
沈黙を押し返さない様に、野ウサギはかすかに呟く。
「主人はいつ戻って来るのでしょう」
「さあね」
何百回と繰り返した問答だった。
「戻って来た刻が、寿命でしょう」
私がなげやりに吐き出せば、野ウサギはやはりかなしそうに眉をひそめる。
お互いに付けられた名前などもう忘れてしまった。この森に太陽は昇らない。
密やかな会話の聞こえるここは、タンスの奥底に潜められた シルバニア・ファミリー。
( 野ウサギとパフ・スリーブ )
作品名:野ウサギとパフスリーブ 作家名:あねよ