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野ウサギとパフスリーブ

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キィン、と鳴り響く古びた鐘の音は合図だ。焼き上がったばかりのケーキをオーブンからそっと取り出し、特別な白い皿を用意して、それから紅茶を入れる。そのための合図だ。早くはやく、と小屋に漂う甘い、あまい香りが私を急かす。
 読みかけていた本に押し花で作ったしおりを挟むと、私は大急ぎで手袋を取り出す。合図の余韻が空気に溶けてしまう前に、早くをオーブン解放しなければいけない。おいしさを凝縮させるのだ。
 オーブンの取手に手を掛ける。ガコン、と音を立て、古い真黒なそれは、満足そうに焼き上がったばかりのパウンドケーキを舌の上に吐き出す。

 優雅なティー・タイムの準備を前に、この塊に施さなければいけないのは適切な処置。さて、どうしよう。未完成なままの其れを、引き立てるためのカップ&ソーサー。ケーキの横にそっと添えるベリーの種類。冷たくするか温もりを持たせた侭にしておくか、など。冷蔵庫の中で冷やすのも良いけれど、熱をもったままの甘みもまた良いものだ。
 私は結局温かいままケーキをいただくことにして、(折角の焼きたてだ)、それからおもむろにナイフを手に取った。
 取り出したケーキの表層に、ざっくりとナイフを入れると、ふわりとした甘みが昇華してゆく。鼻腔をたどるその香りは、けれども先程までの急かす様な色はもうない。ただ懐かしい様な、慈しむ様な、甘いあまい香り。

 静かな森にバンガロー。ほっこりと焼き上がったりんごのパウンドケーキ。甘さを抑えた紅色のアールグレイ。漆黒の陶器は空気を冷やし壁に飾られた絵画は温もりをもたらす。調和を乱さぬ様に椅子を引き、そっと腰を掛ける私。そこでは、この森全体を覆う薄暗さも、さして問題にはならない。それは、優雅な午後と表現するに、全く申し分のないひととき。

(お前はうつくしいね、と主人が私を褒めるので、私はどうしてか嬉しくなってしまう。そして、この時ばかりは私のひとつひとつの造形が、様々な形をした他の もの達よりも優れていることを、心の中に棲むだけの神に感謝をするのだ。
 お前が一番好きだよ、と言う主人には答えず、私は、唇を閉ざしたまま、主人の指が私の頭皮を愛撫するのをただただ感じていた。
 そうして私はまばたきもせずにほほ笑みかけるのだ。

「今日はパウンドケーキを作ろう」

 主人はにっこりと笑って私にそう促す。私は主人の望むままに動作し、停止するだけ。)



 …おそらく。
 この森に足りないといえるものがあるとすればそれは、唯一で絶対の主人の不在。この森の、唯一で絶対の欠陥。幾重にもヒビの入った空間は、微風に晒されながら剥がれ落ちていく。

 コン、コン、という控えなノックの音に、意識を呼び戻される。
 目の前のケーキは、どうしたの。とでも告げる様に悠然とした佇まいを崩そうとはしない。そういえば、私が得意なこのりんごのパウンドケーキは、主人の母親の得意なケーキでもあった。懐かしい香りに、昔の記憶がフラッシュバックしたのだ。
 コン、コンッ!
 再びドアが二度、鳴る。焦れた様子のノックに時計を見やり、それすらも予定調和なのだと考える。
 この時間になるといつもやってくる客がこの森にはいるのだ。茶色の小屋を訪ねる、物好き。
 はあい、と緩慢に返事をすると、

「こんにちは」

 からん、とドアベルを鳴らして入って来たのはくすんだ毛色をした野ウサギだった。

「あら、やっと来たのね」
「お待たせして申し訳ありません」
「別にあんたなんて待っちゃあいないわ」

 私は言いながら、新しい来客のためにケーキと紅茶を用意する。と、偶然視界に入ってきた野ウサギの風体に、私は思わずうんざりとして思わず溜め息をつく。またそんな格好をして、私とこの家の調和を乱そうとするのね。
 昔の私であったなら、こんな日々の来客なんて喜びやしなかっただろうに。だけど、今では定時の訪問に安心感すら覚えている。
 そこの野ウサギに言わせると、私は極端にきれいなものが好き、らしい。それは主人の性格に、私を愛でいた頃の記憶に起因するような気がする。主人の言葉に洗われ、昔、私はうつくしかった。
 けれど、そこの薄汚れた毛並みの野ウサギだって、きちんとしさえすれば、その奥底には輝くシルバーグレイを隠し持っているのだ。ただ、そうしない理由が、野ウサギが身繕いが嫌いな訳では決してないことが、寧ろかつて彼の身形は良かった、ということが私には哀れに思えてならない。どうしても、ブラシが見つからないのだ。それはきっと何処かの箱の中にしまってあるのだろう。私達にはきっと見つけられないだけで。
幸いなことに、私のブラシはきちんと木製の棚の、左上の引きだしに見つける事が出来るので、自慢の金髪はかがやきを保ったまま。かすかな光をも受ける、耳の後ろから背中にかけてのライン。

 薄暗い小屋の中には、香りが充満している。甘いケーキ、古いバスケット、新鮮な土くれ、それから今煎れたばかりのアールグレイ。私達の鼻はもともととても鋭敏で、部屋中の芳香に心を休めた。
 テーブルにひとり、鎮座したままの野ウサギは、目の前に差し出されたケーキに軽くほほ笑むと、その視線は次に漸く私の袖に注がれた。

「その袖は、」

 新しい驚きを涼やかな沈黙にそっと溶かしながら、野ウサギは口を開く。

「その袖は、うつくしいのですね」

 そうでしょう、と私は目を細めた。
 洗いたての白が、幾筋にもなって淡い影をうつし出す光の終着点は均等に繕われたギャザー。金色の刺繍がかすかにあしわれた、ほどよい上品さを演出するカフス。日常の生活になんら関係のない無駄という不健全かつささやかな贅沢の中でも、きわめて完璧なフォルムを誇る、お気に入りのパフ・スリーブ。
 私も主人も、そしてこの野ウサギも、この袖が好きだった。私はふたりの気を引くために、(この服を私に着せるのはただ主人だけだったけれど)、よくこの袖を身に着けたものだった。だけど、主人はもう此所にはいないのだ。
 その原因が、私の所為なら良かったのに、といつもいつも思うのです。主人が、この森を訪れなくなってしまったのは、この私の爪の先が欠けているからでも、ない。残念なことに、この瞳の完璧な青さがもはや主人の気を引くことはないのだ。
 私は唐突に、そういえば、とあと一人この袖を愛していた者がこの森には存在していたことをふと思いだす。あいらしい耳を持った彼女。最後に見たのは、そう、何時だったかしら。私の記憶の中の、一番あたらしい彼女のほほ笑みが、とても哀しい色をしていたのことに、少し不穏なものを感じながら、私は彼女の不在を問い掛ける。

「そういえば」
「なんでしょう」
「熊はどうしたの。最近見ないわね」

 野ウサギは睫毛を震わせる。
 ああ、と心は納得をする。

「…彼女ならあきらめてもう眠りにつきました」
「そんな気はしてた。…まあそれが普通よね」

 野ウサギの静かなまばたきに、私は限りなく素気なく応えた。それでも野ウサギは、そのガラス玉の瞳を紅茶の中にそっと注いだままでいるので、私の心はどうしてかまいってしまう。
作品名:野ウサギとパフスリーブ 作家名:あねよ